第六話 波打ち際の決断
Summary
九条巡の運命診断所
第六話 波打ち際の決断
海原洋介の朝は、暗いうちに始まる。
午前三時。港の倉庫に灯る蛍光灯の下で、洋介は網を広げていた。濡れた繊維が床に重なり、潮と油の匂いが混じる。指先は冷水で荒れ、爪の間には黒い汚れが残っている。洗っても落ちない。落ちないものが、この仕事には多すぎた。
三代続く漁師。
その言葉を、人は簡単に言う。
祖父が始め、父が継ぎ、自分が継いだ。港ではそれだけで説明がつく。海原の船。海原の網。海原の家。子どもの頃から、洋介はそう呼ばれてきた。
だが、海はこの数年で変わった。
水温が上がり、魚の通り道がずれた。昨日までの漁場に魚がいない。遠くへ出れば燃料代がかかる。燃料代は上がり、魚価は下がる。港の年寄りたちは「昔は」と言う。若い者は、言う前に港からいなくなる。
洋介の船も古くなっていた。
エンジンの音が、最近少し重い。修理でしのぐことはできる。だが、しのぐたびに金が減る。漁協からは、新しい船の話をされた。補助金もある。融資も通るだろう。今なら、まだ。
今なら、という言葉ほど、海の上で信用ならないものはない。
夜明け前の港で、洋介は船体に手を置いた。古い塗装の下に、冷たい鉄の感触があった。父の手も、祖父の手も、この同じ場所を触ったはずだった。
「父ちゃん」
声がして振り返ると、息子の湊が倉庫の入り口に立っていた。中学三年生。寝癖のついた髪に、制服のシャツを羽織っている。朝練でもないのに、こんな時間に起きてくることは珍しかった。
「なんだ。まだ寝てていい時間だろ」
「起きた。水飲みに降りたら、父ちゃんの車がなかったから」
湊は港の方を見た。
「また船のこと?」
洋介は答えなかった。答えなくても、子どもは分かる。家の中で大人が黙っていることほど、子どもに伝わるものはない。
「買うの?」
「まだ決めてない」
「買ったら、ずっと続けるってこと?」
洋介は息子の顔を見た。
十四歳の顔だった。まだ子どもの丸みが残っているのに、時々、大人の目をする。自分もこの年頃、父の背中を見ていた。朝の港、濡れた合羽、煙草の匂い、帰ってきた時の魚の重さ。好きか嫌いかを考える前に、海はそこにあった。
「お前が心配することじゃない」
言ってから、洋介はそれが父と同じ言い方だと気づいた。
湊は少しだけ黙った。
「俺、普通科に行きたい」
「水産じゃなくてか」
「うん」
港の方で、船のロープがきしんだ。
「海が嫌いなわけじゃないよ」
湊は慌てたように付け足した。
「海は好き。でも、魚を獲るんじゃなくて、海の中がどう変わってるのか調べたい。なんで魚がいなくなったのかとか、海の温度とか、そういうのを勉強したい」
洋介は何も言えなかった。
息子は海から逃げようとしているのではなかった。
自分とは違う海を見ているだけだった。
「……好きにしろ」
それだけ言った。
湊は小さく頷いた。安心したようにも、まだ信じていないようにも見えた。倉庫の入り口に立ったまま、しばらく父の背中を見ていたが、やがて家の方へ戻っていった。
足音が遠ざかる。
洋介は古い船に手を置いたまま、夜明け前の海を見た。
波は、寄せては返していた。
何も言わないまま。
その男が診断所に入ってきた時、部屋の空気が少しだけ変わった。
潮の匂いがした。
実際には、服に染みついた匂いなのだろう。けれど巡には、海そのものが狭い階段を上がってきたように感じられた。日焼けした顔。短く刈った髪。大きな手。指先の皮膚は割れ、節は太い。椅子に座っても、体のどこかがまだ波に揺られているような人だった。
「海原洋介です」
「九条巡です。今日はお越しいただきありがとうございます」
洋介は軽く頭を下げた。
机の横には、ミチさんが置いていった小さな紙袋があった。中には乾燥させた薬草が入っている。午後の早い時間に、片桐美咲が養心堂へ来て、少しだけミチさんと話して帰った。その残り香のように、階下にはまだ草の匂いがあった。
診断所の扉が閉まると、洋介はすぐに口を開いた。
「船を買うべきかどうか。それだけ聞きに来ました」
短い言葉だった。
余計な説明を嫌う人の言い方ではない。長く話せば、どこかから本当のことが漏れてしまうと分かっている人の言い方だった。
「新しい船、ですか」
「今の船が古い。修理でだましだまし使ってますが、限界です。漁協からは、買い替えた方がいいと言われてます。補助金も出る。融資も通る。周りは、決めるなら今だと言う」
「海原さんご自身は、どう思われていますか」
洋介は窓の方を見た。
診断所の窓からは海など見えない。東京の奥まった路地と、向かいの壁だけがある。それでも彼の目は、遠い水面を探すように動いた。
「分かりません」
その一言だけ、少し声が低くなった。
「海に出れば赤字の日が増えた。燃料代は上がる。魚は減る。沿岸開発の話も出てる。港の一部を売れば、当面は食える。だが売れば、船を出す場所が狭くなる」
洋介は膝の上で手を組んだ。太い指が、ぎゅっと重なる。
「買えば、続けることになる。買わなければ、終わりに近づく」
巡は頷いた。
「終わる、というのは」
「家です」
洋介はすぐに答えた。
「祖父の代からの船です。父が継いで、俺が継いだ。俺の代で終わらせていいのか、それが分からない」
そこで一度、言葉が切れた。
巡は待った。
洋介は、まだ船の話をしている。だが、船の話だけではない。そのことは、机に置かれた沈黙の重さで分かった。
「息子がいます」
「おいくつですか」
「十四です。中三」
洋介の目が少しだけ細くなった。
「今朝、普通科に行きたいと言われました。水産じゃなくて。海洋環境を勉強したいと。魚を獲るんじゃなくて、海を調べたいと言うんです」
洋介は笑おうとして、うまくいかなかった。
「海が嫌いなわけじゃない、と言われました」
その言葉だけが、洋介の胸の中で何度も打ち寄せているのだろう。
「俺も、海が嫌いだったわけじゃない」
声が、少しだけかすれた。
「ただ、選んだ覚えがないんです。気づいた時には、継ぐことになっていた。父もそうだった。祖父も、たぶんそうだった。海原の家は海に出る。それで済んでいた」
洋介は自分の手を見た。
「でも、息子は違う海を見てる。船を買うことによってあいつを縛るかもしれないと思ったら──分からなくなった」
巡は机の上に置いた万年筆を取った。
「生年月日を教えていただけますか」
「昭和五十三年十一月二十六日です」
巡は手帳に数字を書いた。
1978年11月26日。
年柱、戊午。月柱、癸亥。日柱、壬辰。
壬水。
大きな水だった。川であり、海であり、時にすべてを押し流す水。月支には亥。冬の水。海の底で静かに満ちているもの。
そして、天中殺は午未。
今年は丙午。午が来ている。
巡の手が、ほんの少し止まった。
午未天中殺。家系をまとめる役。終わらせることと、つなぐことの境目に立つ人。だが、それをそのまま言えば重すぎる。目の前の男は、すでに十分すぎるほど「家」という言葉を背負っている。
祖母なら、どう言うだろう。
巡は、さくらの声を思い出した。
──怖がらせたらあかん。星は、人を縛るための縄やない。足元を照らす灯りや。
巡は命式から顔を上げた。
「海原さん」
「はい」
「あなたの日干は壬です。水の中でも、大きな水です。川や海のように、流れ続ける水」
洋介が少しだけ眉を上げた。
「名前の通りですか」
「そうですね」
巡は静かに頷いた。
「ただ、大きな水にも、満ちる時と引く時があります」
洋介の表情が変わった。
「満ち引き」
「はい。今のあなたの運気は、潮が引いている時期に入っています」
巡は「天中殺」という言葉を、まだ出さなかった。
言葉には順番がある。村田の時に、それを学んだばかりだった。早すぎる言葉は、人を救う前に傷つける。
「潮が引くと、船は出しにくくなります。無理に沖へ出ようとすれば、底を擦る。けれど、潮が引いた時にしか見えないものもあります」
洋介は黙って聞いていた。
「海底の岩。捨てられた網。普段は水の下に隠れているもの。満ちている時には見えなかった地形が、引き潮の時には見える」
「今は、出る時じゃないと」
「大きな船を出す時ではないと思います」
洋介の喉が動いた。
「買うな、ということですか」
「いいえ」
巡はすぐに否定した。
「買うな、と私が決めることではありません。漁師を辞めろ、と言うことでもありません」
洋介の目が、まっすぐ巡を見た。
「では、何をしろと」
「今は、答えを急がないことです」
その言葉に、洋介は小さく息を吐いた。失望にも、怒りにも似た息だった。
「そんなことを言われても、待っている間にも金は減ります」
「はい」
「船は古くなる。港の話も進む。息子の進路も決まっていく。待っていたら、全部流れていく」
「流れていくものもあります」
巡は言った。
「でも、流してはいけないものと、流れていくことで初めて見えるものがあります」
洋介は黙った。
外で、車が一台通り過ぎた。路地の音はすぐに小さくなり、部屋にはまた静けさが戻った。
「海原さんは、船を買うかどうかを聞きに来られました」
「はい」
「でも、本当に苦しいのは、船の値段ではないのではありませんか」
洋介の指が動いた。
「あなたは、新しい船を買うことで、息子さんの未来までこの港に置いてしまうのではないかと感じている」
洋介は何も言わなかった。
ただ、視線だけが少し下がった。
「ご自身が選ばずに継いだものを、息子さんにも渡していいのか。それが、本当の問いなのではないですか」
沈黙が落ちた。
洋介は長い時間、手帳の上に書かれた自分の命式を見ていた。読めるはずのない文字列を、まるで海図を見るように見ていた。
「……俺は」
声が、低く割れた。
「あいつが継ぐと思ってたわけじゃないんです」
「はい」
「ただ、どこかで、そう思ってたんでしょうね。俺が動けなくなったら、あいつが船に乗る。俺が親父から受け取ったみたいに」
洋介は苦笑した。
「ひどい話だ」
「ひどい、と決めなくていいと思います」
巡はゆっくりと言った。
「家を守りたい気持ちは、悪ではありません。海を続けたい気持ちも、悪ではありません。息子さんに自由でいてほしい気持ちも、同じように本物です」
洋介の顔が、少し歪んだ。
「全部本物なら、どうすればいいんですか」
「だから、今すぐ一つに決めなくてもいいのだと思います」
巡は、手帳の端に小さく波の形を描いた。
「引き潮の時は、沖へ出るより、足元を見る時間です」
「足元」
「はい。海原さんが見てきた海と、息子さんが見ている海。その二つは、同じ海のようで、違うのかもしれません」
「違う海」
巡は言葉を区切った。
「魚を獲る海。調べる海。守る海。外へ出る海」
洋介は顔を上げた。
「息子さんは、海を捨てようとしているのではなく、あなたとは別の海を見ているのかもしれません」
湊の言葉が、洋介の中で動いたのが分かった。
──海が嫌いなわけじゃないよ。
洋介は片手で口元を覆った。
「俺は、あいつが港から出ていくと思った」
「出ていくかもしれません」
巡は言った。
「でも、それは海を捨てることとは違うかもしれません」
洋介は何度か瞬きをした。
「では、船は」
「今は、買うための理由を探す時期ではないと思います」
巡の声は穏やかだった。
「買わない理由を探す時期でもありません。潮が引いている間に、船を買った後の未来を一つだけにしないことです」
「一つだけにしない」
「はい。息子さんが継ぐ未来。継がない未来。あなたが続ける未来。あなたが降りる未来。どれか一つを正解にする前に、それぞれを紙に書いてみる」
巡は少しだけ視線を落とした。
「海図を作るように」
洋介の目が、そこで初めてわずかに緩んだ。
「海図」
「船を出す前に、潮と岩を見ますよね」
「見ます」
「人生の大きな船も、同じだと思います」
洋介は深く息を吐いた。
その息は、診断所に入ってきてから初めて、少しだけ体の外へ出たように聞こえた。
「先生」
「はい」
「俺の代で終わらせることは、逃げですか」
巡は、すぐには答えなかった。
答えたくなる問いほど、すぐに答えてはいけない。
祖母のノートの背表紙が、机の端で静かに光を受けていた。
「終わらせることが逃げになる時もあります」
巡は言った。
「でも、終わらせることで、次の人が別の形で進めることもあります」
洋介の喉が動いた。
「海原さんが今すぐ決めることではありません。ただ、一つだけ」
「はい」
「息子さんの夢は、あなたの船の続きとしてだけでは読めないのだと思います」
洋介は目を閉じた。
その顔は、海で強い風を受けている人の顔だった。目を閉じても、足元で波を読んでいる。
「……分かりました」
短い返事だった。
だが、来た時の声とは違っていた。
診断が終わる頃、窓の外は夕方の色に変わっていた。
洋介は帰り際、階段の前で立ち止まった。
「先生」
「はい」
「天中殺、でしたっけ」
巡は少しだけ驚いた。
「聞いたことがあります。港のやつが言ってました。悪い年だから何もするなって」
洋介は不器用に笑った。
「俺は、そういうのは信じてなかったんですが」
巡は首を横に振った。
「悪い年、ではありません」
「違うんですか」
「はい」
巡は階段の暗がりを見た。
「潮が引く年です」
洋介は、その言葉を胸の中で確かめるように黙った。
「潮が引いた時に、船を出せないこともあります。でも、潮が引いたから見えるものもある。私は、そう考えています」
「じゃあ、今は」
「見る時です」
洋介は頷いた。
「息子と、話してみます。継ぐかどうかじゃなくて、あいつが見てる海のことを」
巡は頷き返した。
洋介が階段を降りていく。足音は重かった。だが、来た時のように押し潰された重さではなかった。濡れた網を肩から下ろした後のような重さだった。
一階で、ミチさんの声がした。
「お帰りですか」
「はい」
「雨、降りそうですよ」
「海じゃ、これくらい雨のうちに入らんです」
短いやり取りのあと、扉の鈴が鳴った。
巡は窓の外を見た。
東京の路地には、海はない。潮の満ち引きも見えない。それでも、今日の診断所には、引いていく水の気配が残っていた。
机の上には、洋介の命式が残っている。
壬辰。
大きな水を抱えた人。辰の土にせき止められながら、それでもどこかへ流れようとする水。
午未天中殺。
家をまとめ、時に自分の代で何かを終わらせる人。
巡はそこまで読んで、万年筆を置いた。
それを本人に告げる必要は、まだない。
言葉は、早すぎれば毒になる。遅すぎれば、届かない。どの言葉を、どの潮目で渡すか。それもまた、鑑定だった。
スマートフォンが、机の端で光った。
ニュース通知だった。
東京湾岸再開発に関する短い記事。見出しの中に、見覚えのある企業名があった。
東立キャピタル。
巡は画面を消した。
まだ、読む時ではない。
窓の外で、細い雨が降り始めていた。