番外 駆ける者と担ぐ者
Summary
九条巡の運命診断所
番外 駆ける者と担ぐ者
雨は昼前に止んでいたが、診断所の階段の踏み板はまだ濡れていた。
巡は窓辺に肘をついて、表通りの濡れた敷石を見ていた。水を吸った石は、晴れた日よりも一段深い色になる。誰かが上から踏みつけても、しばらくはその色のまま黙っている。沈むものは沈んでから語る。表面で乾く色とは別の、底に残る色がある。
階下の鈴が鳴った。
足音は速かった。
一段飛ばしの足音だった。靴のかかとが板に当たる角度が浅い。前に出る重心。来ると決めた人の足音ではなく、走ってきた人の足音だった。
ノックは三回。間がなかった。
「どうぞ」
扉が開く前に、外で一度息を整える気配があった。
入ってきたのは、紺の地味なスーツを着た男だった。三十代半ばだろうか。背は平均より少し高く、肩から先が大きい。手のひらが分厚い。指の関節が一段濃く、爪は短く切られていた。誰かと握手することの多い手だった。
ただ、ネクタイの結び目は少しだけ斜めに上がっていた。鏡の前で締めた結び目ではなく、車の中で締めた結び目だった。
「予約していた、田所です」
声は良かった。営業の声だった。語尾の落とし方に、相手の懐に滑り込ませる癖がある。
「九条です。どうぞ、おかけください」
田所はソファに座った。座ってから、自分の動きが大きすぎたと気づいたように、肩を一度だけ縮めた。
「九条先生、お時間ありがとうございます。三十分でしたよね」
「お話の途中で時計を気にしなくて大丈夫です。診断は、終わるべきところで終わります」
田所は一瞬、答えに詰まった。
時間を区切られて話すことに慣れている人だった。区切られないことの方が、慣れていない。
「今日は、どのようなご相談でしょう」
「ええと」
田所は膝に手を置いた。指でズボンの折り目をなぞる。なぞって、止めた。
「単刀直入に言いますね。自分が、今いる場所に向いているかどうかを知りたいです」
「今いる場所」
「四月から、本社の営業企画に異動になりました。十二年間、現場の営業をやってきて、それなりに数字も出して、そのご褒美みたいな辞令だったんです。聞いた時は嬉しかった。妻も親も喜んでくれた」
田所はそこで一度、息を吐いた。
「ただ、二週間で、もう逃げ出したいです」
その言葉は、想定より早く出た。本人も少し驚いたようだった。
「会議が、終わらないんです」
田所は自分の言葉を一度確認するように、ゆっくり繰り返した。
「会議が、終わらない。資料が、終わらない。決裁が、終わらない。いや、終わらないというか、終わらせ方が分からない。現場なら、客がうんと言うかノーと言うかで終わるじゃないですか。営業企画は、誰もうんと言わないし、誰もノーと言わない。気づいたら別の会議が始まっている」
それから少しだけ、声を落とした。
「現場の頃の方が、よっぽど苦しいことも多かったんです。深夜の電話も、土下座も、横っ面叩かれたみたいなクレームもあった。でも、終わったら終わってた。終わるから、また走れた」
「今は、終わらない」
「終わらないんです」
田所は一度、両手で顔を撫でた。指の関節が頬骨の上で硬い音を立てた。
「恥ずかしい話ですけど、トイレで泣きました。三十六で、トイレで泣くとは思ってなかった」
「恥ずかしい話ではないです」
巡は静かに言った。
「走っていた人が、立ち止まらされた時に最初に出る反応です」
田所は顔を上げた。
「立ち止まらされた」
「はい」
田所は何かを言いかけて、やめた。
その「やめた」を、巡は待った。
「上司に、佐伯さんという人がいます」
田所が言った。
「同期です。十二年前に同じ研修を受けた。あいつは入社した頃から、現場よりも数字の整理とか、社内の根回しとか、上の人と話す方が得意で。三十二で課長、三十五で部長になった。今、僕の上司です」
「佐伯さん」
「佐伯はね、すごいんです。会議中、ほとんど喋らない。喋らないのに、終わる頃には全員が彼の結論に従っている。誰にも嫌われていない。役員にも、若い派遣の子にも、同じ顔で接してる。失礼な物言いも一度も聞いたことがない」
田所は視線を落とした。
「最初は、尊敬してました。今も、尊敬はしてます。ただ、ここ二週間、佐伯のあの顔を見ているのが、しんどい」
「しんどい」
「あいつみたいに、なれない自分が、しんどい」
田所は手のひらを膝の上で握った。短く切った爪が、自分のズボンに食い込んでいた。
「佐伯の生年月日も、聞き出してきました。本当は、自分のことを相談に来たんですけど、佐伯の方が先に気になってしまって」
田所は鞄から、二枚の紙を出した。
一枚目が自分の生年月日。二枚目に、佐伯の生年月日。佐伯の紙の方が、しっかり折り目がついていた。何度もポケットから出し入れした紙だった。
巡はそれを見て、一度だけ目を伏せた。
誰かを越えたい人と、誰かを否定したい人と、誰かに自分を分かってほしい人とでは、紙の折り目が違う。田所の折り目は、三つ目だった。
「お二人の命式、出してもいいですか」
「お願いします」
筆先が紙の上を進む。十干。十二支。星。五行。
田所雄一。日柱、庚午。
日干が陽の金、庚。研がれた金属。刀。斧。中心に車騎星が立っている。南には禄存星、北には司禄星。年支に午、月支に寅。火が強い盤面に、刀が一本立てかけてある図だった。
佐伯の方は、日柱、辛丑。日干が陰の金、辛。研磨された宝石。中心に牽牛星。北には貫索星。盤面の構えが、内側に向かって閉じている。重い扉のついた金庫の絵だった。
巡は、二つの命式を並べた。
刀と、宝石。
どちらも金性。どちらも、攻撃本能から生まれる星だった。ただ、生まれ方が違う。
「田所さん」
「はい」
「先に、一つだけ申し上げてもいいですか」
「お願いします」
「あなたの中心の星と、佐伯さんの中心の星は、生まれている場所がほとんど同じです」
田所が顔を上げた。
「同じ?」
「金性の攻撃本能、と算命学では呼びます。何かを成し遂げるために、自分の外へ向かって力を出す本能です。田所さんは陽の金、佐伯さんは陰の金。同じ金から生まれて、出方が違うだけです」
「出方が、違う」
「車騎星と、牽牛星と言います」
巡は紙の上に、その二つの名前を並べて書いた。
田所は、その二文字のそれぞれを、一度ずつ口の中で読んだ。
「車騎星は、戦場を駆ける者の星です。一人で打って出て、一人で逃げる。考えるより先に手足が動く。速さと、単独で勝負を決める力を持っています。営業の現場で、客の前に出て、その場で勝負を決めてくる仕事は、車騎星の最も得意な戦い方です」
「現場」
「はい」
「僕が、得意だったやつ」
「得意だった、というより、田所さんの星がそこで一番きれいに光る場所です」
田所はしばらく黙っていた。
「じゃあ、佐伯は」
「佐伯さんの牽牛星は、組織を担う者の星です。集団の中で役割を引き受け、規律と名誉に従って動く。喋らない会議で結論を持っていけるのは、佐伯さんが場の役割を読み、自分の立つ位置を最初から決めているからです。喋らないのではなく、喋るべき場所をすでに選んでいる」
田所は、ふっと小さく笑った。乾いた笑いだった。
「あいつ、だから人事評価も得意なのか」
「組織の中で名と位置を整える仕事に、牽牛星の力は深く向きます。あの人は、評価される側であると同時に、評価する側にも自然に立てる」
「僕には、向いていないんですか」
「向いていない、というより」
巡は少しだけ言葉を選んだ。
「同じ金性でも、田所さんの刀は、抜く場所が違います」
「抜く場所」
「車騎星は、戦の最前線で抜くと光ります。後方で、机の上に置かれた紙を切るために抜くと、刃が傷みます。鋭利な刀は、紙を切る道具ではない」
田所は、その喩えにしばらく動かなかった。
窓の外で、樋から水が落ちる音がした。雨はもう止んでいるのに、屋根の上の溜まりが、まだ少しずつ零れている。
「先生」
「はい」
「じゃあ、僕は、現場に戻った方がいいんですか」
その問いは、来た時よりも、ずっと小さな声だった。
巡はすぐには答えなかった。
答えを急ぐと、田所は走り出してしまう。走り出すための答えではなく、立ち止まって考えるための答えを置きたかった。
「戻るかどうかは、今日決めなくていいです」
「でも」
「先に、一つだけ確かめてもいいですか」
田所は頷いた。
「田所さんが今、辛いのは、結果が出ていないからですか。それとも、筋が通っていないからですか」
「結果か、筋か」
「現場では、結果が出る、出ないで、世界が動いていました。会議では、誰の言い分が筋に合うかで世界が動きます。同じ『うまくいかない』でも、車騎星の人は結果が出ないことに、牽牛星の人は筋が通らないことに、苦しみます」
田所は、自分の手のひらを見つめた。
長い沈黙だった。
膝の上で握っていた指が、ゆっくりほどけた。
「結果が、出ていません」
その答えは、ぽろりと落ちた。
「会議で、僕が話した提案が、二週間で一つも前に進んでいない。佐伯はうまく流してくれている。役員も否定はしない。でも、進まない。何も進まない。進まないってことが、こんなに苦しいなんて、思っていなかった」
「進まないことに苦しむのは、車騎星の人の苦しみ方です」
田所はもう一度、自分の手を見た。
「僕は、佐伯みたいに、筋を整えることに苦しんでるんじゃないんですね」
「筋を整える苦しみは、佐伯さんの苦しみです。佐伯さんが今、別の場所で抱えているはずの苦しみが、あります」
「あいつにも、苦しみはあるんですか」
「牽牛星の人は、名誉と評価を背負って動きます。背負うものが大きくなるほど、降ろせなくなる。役職を脱いだ自分が分からなくなる時が、必ず来ます」
田所は、少し驚いたように目を見開いた。
「あいつが、役職を、脱げなくなる」
「はい」
田所は深く息を吐いた。
「考えたこともなかったです。あいつはずっと、役職を着て生まれてきたみたいな顔をしているから」
「着て生まれてきた人ほど、脱ぎ方を知りません」
巡は二つの命式の間に、細い線を引いた。
「田所さんは、刀です。佐伯さんは、宝石です。刀は走って斬る。宝石は座って光る。どちらが上ということは、ありません」
「どちらが上ということは、ない」
「ただ、宝石を真似して座っていると、刀は錆びます」
田所は、しばらくその一文を口の中で繰り返していた。
錆びる、と何度か呟いた。
二週間、自分に起きていたことの名前が、その二文字に沈んでいくようだった。
「先生」
「はい」
「現場に戻るかどうかは、今日決めなくていいって言いましたよね」
「はい」
「じゃあ、何を決めればいいですか」
巡は少しだけ考えてから、机の上の万年筆を持ち直した。
「田所さんに、一つだけ宿題を出してもいいですか」
「お願いします」
「今週中に、現場の人と一人、会ってください」
田所は、頷きかけて止まった。
「それだけ、ですか」
「それだけです。会議の合間ではなく、現場に出向いて、できれば客先に同行してください。新しい提案を持っていく必要はありません。営業企画の名刺を、最前線の机の上に一度置きに行く、それだけです」
「名刺を、置きに」
「車騎星の人は、机の前で考え続けると壊れます。動いている間に、考えるべきことを身体が思い出します。佐伯さんが机の上で整えるものを、田所さんは脚で整える人です」
田所は、しばらく黙ってその指示を受け止めていた。
「佐伯みたいになろうとしなくて、いいんですか」
「ならなくていい、というより、なれません」
巡は言葉を一つ置いた。
「ただ、佐伯さんを尊敬することは、続けていいと思います。同じ金性の人どうしは、似ているから争うのではなく、補い合えるはずです。あなたが現場の最前線で結果を取ってくる時、佐伯さんはその結果が組織に残るように、筋を整えてくれている」
「あいつが、僕の結果を、残してくれている」
「営業の現場が、企画の机の上で形になる時、必ず牽牛星の手が要ります。あなたが嫌っていた、終わらない会議のいくらかは、本当はあなたの数字を会社の中に置き直す作業だったかもしれません」
田所は、その言葉に長く頷いた。
頷いてから、肩から少しだけ力が抜けた。
「先生」
「はい」
「あいつのこと、嫌いになりかけてました」
「気づけて、よかったです」
「気づかなかったら、僕は会社の中で、佐伯を一人で敵にして走り回るところでした」
「車騎星は、敵を作る方が、走りやすい星です」
田所は、初めて声を出して笑った。
「先生、それ、当たってます」
帰り際、田所は扉の前で振り返った。ネクタイの結び目を、片手で軽く直していた。さっきよりも、まっすぐになっていた。
「九条先生」
「はい」
「現場に出るの、口実ができました」
「口実ですか」
「『先生に診てもらった結果、現場に挨拶に行ってこいって言われた』って、佐伯に言います」
巡は少しだけ笑った。
「佐伯さんに、よろしくお伝えください」
「あいつ、たぶん、すごい嫌な顔します」
「それも、佐伯さんの仕事です」
田所は、声を立てて笑いながら出ていった。
階段を下りる足音は、来た時とは少し違っていた。一段飛ばしではなかった。一段ずつ、踏み板を確かめるように下りていた。それでも、軽かった。重い足音ではなかった。
扉が閉まったあと、診断所には、湿った布の匂いが残った。
巡は窓の外を見た。
濡れた敷石は、まだ乾いていなかった。
刀は、抜く場所が違えば錆びる。宝石は、座る場所を間違えれば光らない。同じ金から生まれた二つの星は、似ているから人を惑わせるが、似ているからこそ、互いを必要とする。
巡は手帳を開いた。
田所雄一──庚午。
その横に、万年筆で書き添えた。
「刀は、走って光る」
少し間を置いて、もう一行、書き足した。
「宝石は、座って光る」
インクが沈むのを待つ間、表通りの敷石の色が、ゆっくりと薄くなっていった。
日が出ていた。