第七話 欠けた鉢
Summary
九条巡の運命診断所
第七話 欠けた鉢
五月の午後、巡は駅前の書店にいた。
ミチさんに頼まれた薬草図鑑を受け取りに来ただけだった。児童書の棚を抜けてレジへ向かう途中、小さな物音がした。
土が、床にこぼれていた。
棚の端に置かれていた販促用の素焼きの鉢が倒れ、縁が少し欠けている。中に入っていた乾いた土が、児童書の平台の下へ細く広がっていた。
「危ないので、こちらで処分します」
店員が鉢に手を伸ばした瞬間、近くに立っていた女性が、ほとんど反射の速さで言った。
「捨てないでください」
声は大きくなかった。けれど、刃物のようにまっすぐだった。
女性はすぐに我に返ったように目を伏せ、しゃがんで土を拾い始めた。生成りのシャツに深い緑のカーディガン。短い髪の耳の後ろに、絵の具のような青い染みが一つついている。指先にも、爪の脇に落ちきらない群青が残っていた。
「すみません。私、拾います」
「いえ、お客様にさせるわけには」
「少しだけですから」
女性は、床に散った土を指先で寄せた。一粒ずつ、失くしたものを数えるような手つきだった。さきほどの鋭さはもうない。割れた鉢を庇いながら、平台の下に入り込んだ土まで集めようとしている。
その横で、小さな女の子が一冊の絵本を手に取った。
表紙には、夜の町を歩く小さなクマが描かれていた。クマは両手で空っぽの植木鉢を抱えている。
女性の指が、ほんの少し止まった。
巡は声をかけなかった。かけるべき場面ではないと思った。
欠けているものは、たいてい、最初から大きな穴の姿では現れない。捨てないでください、という短い声や、床の土を拾う指先に、先に現れる。
その一時間後、診断所の窓辺に置いた鉢植えの土が、少し乾き始めていた。
巡は指先で土の表面を押した。湿っているように見えて、指の腹には細かい粉がつく。朝に水をやったはずなのに、鉢の縁から下だけが妙に乾いていた。
鉢を持ち上げると、底に細いひびが入っていた。
割れてはいない。ただ、水を留めるには足りないほどの、細い隙間だった。
一階の養心堂から、ミチさんが誰かに漢方の説明をしている声が聞こえた。今日は麦門冬の匂いが上がってきている。乾いた喉を潤す薬の匂いだった。
予約は午後三時。
名前は、榊原澪。三十歳。絵本作家、と問い合わせの欄に書かれていた。
相談内容は短かった。
「たくさんの人に読まれるほど、誰にも愛されていない気がします」
階下の鈴が鳴った。
足音は、軽かった。けれど、軽い足音のわりに、階段の途中で何度も止まった。一段上がるたびに、自分の来た理由をもう一度確かめているような足音だった。
ノックは二回。
二回目だけ、少し弱かった。
「どうぞ」
扉が開いた。
入ってきたのは、駅前の書店で土を拾っていた女性だった。
生成りのシャツに、深い緑のカーディガン。髪は短く、耳の後ろに絵の具のような青い染みが一つついている。指先には、まだ群青と、さっき拾った土の粉が少し残っていた。
鞄は小さかった。その小さな鞄から、厚い封筒と、薄い絵本が一冊、角を覗かせている。
「榊原澪です」
「九条巡です。お待ちしていました」
澪は巡の顔を見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。あの書店にいた人だと気づいたのかもしれない。けれど、何も言わなかった。
澪は椅子に座る前に、部屋の中を一度だけ見回した。書棚、月暦、窓辺の鉢植え、祖母のノート。最後に、巡の手元で止まった。
「すみません。こういう場所に来るのが、初めてで」
「初めての方がほとんどです」
「そうですか」
澪は少しだけ笑った。笑ったあとで、その笑いをどこに置けばいいのか分からないように、膝の上で指を組んだ。
「今日は、どのようなご相談でしょう」
巡が問いかけると、澪はすぐには答えなかった。
鞄から絵本を取り出した。表紙には、夜の町を歩く小さなクマが描かれていた。クマは両手で空っぽの植木鉢を抱えている。背中に月明かりが落ちて、鉢の中だけが真っ暗だった。
「これ、私の本です」
「拝見しても」
「はい」
巡は絵本を受け取った。
題名は『月の鉢』。
見返しに、小さな文字で献辞が書かれていた。
「からっぽのまま眠る子へ」。
巡はページをめくった。
クマは夜の町を歩き、いろいろなものを鉢に入れようとする。パン屋の匂い。川に映った星。友だちの笑い声。母親の毛布。どれも鉢に入れた瞬間、底からこぼれてしまう。最後にクマは、空っぽの鉢を抱いたまま丘に登り、月を見上げる。鉢には何も入らない。けれど、鉢の内側が月明かりで白く光る。
子どもの絵本だった。
ただ、子どもだけの本ではなかった。
「この本が、去年、賞を取りました」
澪が言った。
「最初は、小さな出版社から出た本だったんです。でも、書店員さんが選んでくださって、新聞に載って、海外でも翻訳が決まって。急に、知らない人から感想が届くようになりました」
「多くの方に読まれた」
「はい」
澪は頷いた。
「夢みたいでした。子どもの頃から、ずっと絵本を描きたかったので。お金も、初めて絵本だけに集中して制作できるようになりました。母に仕送りもできました。仕事の依頼も増えました」
そこまで言って、澪は絵本の表紙に視線を落とした。
「でも、恋人に振られました」
言葉の置き方が、唐突だった。
けれど、本人の中では唐突ではなかったのだろう。賞を取ったことと、恋人に振られたことが、同じ一本の紐で結ばれている声だった。
「三年、一緒にいました。私が売れる前から、ずっと支えてくれた人です。最初にこの本を読んでくれたのも、その人でした」
「はい」
「でも、今年の二月に、『もう無理だ』と言われました」
澪の指が、絵本の角を押さえた。紙が少しだけたわんだ。
「君は、何を渡しても足りないと言う。言わなくても、足りないと思っているのが分かる。愛していると言っても、そばにいても、電話に出ても、締切の夜にご飯を作っても、次の日にはまた不安になっている。底のない鉢に水を注いでいるみたいで、苦しい」
巡は、窓辺の鉢植えを見た。
底のひび。
水が残らない器。
「その言葉が、離れなくて」
澪は言った。
「私は、底のない鉢なんだと思いました。誰かがどれだけ愛してくれても、私の中には残らない。読者の方が何万人いても、感想が何百通届いても、夜になると、誰からも愛されていない気がするんです」
澪は顔を上げた。
「九条さん。私には、人を愛する土台が、ないんでしょうか」
巡はすぐには答えなかった。
「榊原さんの生年月日を教えていただけますか」
澪は頷き、鞄から万年筆を出した。絵を描く人の万年筆だった。胴に小さな傷がいくつもついている。
一九九五年十一月十六日。
巡は手帳を開いた。
十干。十二支。蔵干。星。五行。
紙の上に、命式が静かに並んでいく。
巡は、五行の欄で手を止めた。
木と水が強い。火もある。金もある。
土だけが、なかった。
土性。
禄。
引力。
愛情と、財と、人が集まる土台。
その一方で、陽占の横線には、同じ星が三つ並んでいた。
東に司禄星。中央に司禄星。西に司禄星。
社会に出る顔も、家へ戻る顔も、芯のところも、同じように、日々を積み、欠けたものを捨てず、手元に残そうとする星だった。
北には禄存星。目上や過去へ向ける、惜しみない愛情。
南には車騎星。目下や未来へ向ける、ためらいのない刃。
さっきの書店で見た、こぼれた土を一粒ずつ拾う指と、「捨てないでください」という鋭い声が、紙の上で同じ形になっていた。
巡は、澪の絵本をもう一度見た。
空っぽの鉢を抱いたクマ。
この人は、自分の命式を知らないまま、自分の命式の絵を描いていた。
「榊原さん」
「はい」
「あなたの命式には、土性が一つもありません」
澪の顔が、わずかに固まった。
「土性、ですか」
「五行の一つです。木、火、土、金、水。そのうち、土は人を惹きつける力、愛情を受け止める力、財を留める力に関係します。算命学では、禄とも呼びます」
「禄」
「お金だけではありません。人との縁、愛されているという感覚、ここにいていいという安心。それらを地面のように受け止める働きです」
澪は、息を止めるように聞いていた。
「その土が、私にはない」
「一つもありません」
巡は、はっきりと言った。
曖昧に慰めると、澪はその隙間に自分を責める言葉を入れてしまう。
「だから、愛されていないと感じやすい。お金が入ってきても、安心として残りにくい。人が集まってきても、いつか離れていく気配の方を先に感じてしまう。恋人の愛情を受け取っても、器の底から抜けていくように感じる」
澪の目が揺れた。
「ただ、もう一つあります」
「もう一つ」
「あなたの星には、司禄星が三つあります。社会の顔にも、家庭の顔にも、中心にも」
澪は、意味を測るように巡を見た。
「司禄星は、日々の積み重ねを大切にする星です。急に変わることより、少しずつ蓄えることを選ぶ。信頼も、お金も、暮らしも、人との関係も、壊さずに育てたい」
「それが、三つ」
「はい。だから、榊原さんは本来、とても安定したい人です。愛を軽く扱いたい人ではありません。むしろ、愛されたことや、渡された言葉や、誰かのためにした小さなことを、全部覚えておきたい人です」
澪の指が、絵本の角から離れた。
「そんなに残したいのに、残らない」
「その苦しさです」
「やっぱり、欠陥なんですね」
「いいえ」
巡は、すぐに言った。
「欠陥ではありません」
澪は、言葉を失った。
「でも、今、ないって」
「ないことと、悪いことは、同じではありません」
巡は紙の上に、五つの文字を書いた。
木。
火。
土。
金。
水。
「五行は、全部そろっている方が安定します。木が欠けると、心の安定や生きがいに悩みが出やすい。火が欠けると、健康や夢や希望の灯りが見えにくい。土が欠けると、今お話ししたように、お金や愛情や人間関係の安心に悩みが出やすい。金が欠けると、仕事や社会的な役割、家庭の柱に迷いが出る。水が欠けると、知恵や学び、目上から認められることに飢えやすい」
澪は、五つの文字を見ていた。
「では、欠けていない方がいいんじゃないですか」
「暮らしやすさだけで言えば、そういう面はあります」
巡は頷いた。
「ただ、人が何かを深く掘る時は、満ちている場所ではなく、欠けている場所から掘り始めることが多いんです」
「欠けている場所から」
「木がない人は、生涯をかけて自分の心の根を探します。火がない人は、どうすれば自分の中の灯りを誰かに伝えられるかを探します。金がない人は、どうすれば一歩踏み出せるのかを、何度も何度も考える。水がない人は、知りたいという飢えで、普通の人が途中でやめるところからさらに潜っていく」
巡は、土の文字の下に、小さく鉢を描いた。
「土が薄い人は、愛されるとは何か、人を惹きつけるとは何か、お金が安心になるとはどういうことかを、死ぬまで探します」
澪は唇を噛んだ。
「それは、苦しいです」
「はい。苦しいです」
「なら」
「でも、榊原さんの『月の鉢』は、その苦しみがなければ描けなかった本だと思います」
澪の手が止まった。
「底のない鉢を抱いている子どもを、あなたは責めていません。鉢が空っぽであることを、失敗として描いていない。最後に月明かりが入る。入って、留まらない。留まらないのに、鉢の内側が白く光る。あれは、土が薄い人でなければ、たぶん描けません」
澪は絵本を見た。
自分が描いたクマの表紙を、初めて他人の本のように見ていた。
「私は、ただ、自分のことを描いただけです」
「ええ」
「それが、たまたま、読まれただけです」
「たまたまではありません」
巡は静かに言った。
「人は、自分にないものを、深く見ます。持っている人より、持っていない人の方が、そこに何があるのかを見続けることがある。土を持っている人は、愛情を当たり前の地面として踏みます。土が薄い人は、その地面の感触を、失われるたびに、指先で確かめる」
澪の目に、涙が滲んだ。
「先生」
「はい」
「私の本を読んで泣いた人たちは、私の苦しみを通して泣いたんでしょうか」
「そうかもしれません」
「そんなの」
澪は言葉を探した。
「そんなの、ひどいですね」
「ひどいです」
巡は頷いた。
「「才能」という響きはひどく美しいけれど、その正体はたいてい、自分に欠けたものを渇望し続けた眼差しの傷跡です。
人の心を打つ歌詞も、美しい物語も、決して天からの贈り物などではありません。その癒えない傷口から滲む苦悩をインクにして、命を削るようにして書き上げられたものなのです。」
澪は、静かに深く頷いた
巡がその話を初めて聞いたのは、九歳の秋だった。
京都の祖母の家の庭に、古い素焼きの鉢がいくつも並んでいた。さくらは毎年、秋になると、ひびの入った鉢を庭の隅に集めた。
「捨てるん?」
巡が聞くと、さくらは首を振った。
「まだ捨てへん」
「割れてるやん」
「割れてるな」
「水、漏れるやん」
「漏れるな」
さくらは、ひびの入った鉢を一つ持ち上げた。底に小さな欠けがあった。そこから乾いた土が少しこぼれていた。
「巡ちゃん、鉢には二種類あるんや」
「二種類?」
「水を留める鉢と、水を通す鉢や」
「通したら、あかんやん」
「草花によってはな、水が留まりすぎると根腐れする。水が抜けるから、息ができる根もある」
さくらは、鉢の底を指で撫でた。
「人も同じや。木が欠けた人は、根を探す。火が欠けた人は、灯りを探す。土が欠けた人は、愛を探す。金が欠けた人は、役目を探す。水が欠けた人は、知恵を探す」
「欠けてたら、かわいそうやん」
「かわいそうやな」
さくらは、頷いた。
「欠けてる人は、苦しい。そこは、きれいごとにしたらあかん。木がない人は心の居場所で泣く。火がない人は夢の灯りで泣く。土がない人は愛とお金で泣く。金がない人は仕事や背負うべき責任で泣く。水がない人は学びと評価で泣く」
巡は、ひびの入った鉢を見ていた。
「じゃあ、やっぱり、直した方がええんや」
「直せる時は、直したらええ」
さくらは言った。
「守護神いうてな、その人に足りん気を補う働きがある。運で来ることもあるし、人で来ることもある。足りんものが来たら、息がしやすうなる。生活は楽になる。痛みも少し静かになる」
「じゃあ、それでええやん」
さくらは笑った。
「そう単純でもないんや」
庭の隅に、西日が落ちていた。ひびの入った鉢の底から、細い光が差していた。
「世の中で、普通の人にはできへんことをする人はな、たいてい、どこかが大きゅう偏っとる。水が足りんから、一生水を探す。土が足りんから、一生愛を探す。火が足りんから、自分の灯りを見つけるまで描き続ける」
「苦しいのに?」
「苦しいからや」
さくらは、鉢を縁側に置いた。
「全部そろった、きれいな鉢は、水を入れたらちゃんと残る。暮らしやすい。せやけど、ひびの入った鉢から漏れた水が、地面の奥まで染みて、誰も知らん根を育てることがある」
巡は、よく分からないまま頷いた。
「欠けてることは、悪いことやないん?」
「悪いことやない」
「いいこと?」
「それも違う」
さくらは、巡の頭を軽く撫でた。
「欠けは、欠けや。痛いところや。せやけどな、痛いところは、その人が世界に手を伸ばすところでもある。完全に丸い石は、誰とも引っかからへん。少し欠けてるから、そこに誰かの指がかかる」
「指が」
「そうや。欠けはな、恥ずかしい穴やのうて、人と手を繋ぐための、愛しい隙間や」
その時、巡はまだ、愛しい隙間という言葉の意味を分かっていなかった。
ただ、さくらがひびの入った鉢を捨てずに、庭の隅へ置いた理由だけは、少し分かった気がした。
翌年の春、その鉢の下から、知らない草が一本、生えていた。
巡は目を開けた。
目の前で、澪がハンカチを探していた。鞄の中で封筒と絵本が擦れる音がした。
巡はティッシュを差し出した。
「ありがとうございます」
澪はそれを受け取り、目元を押さえた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「私、最近、少しだけ楽なんです」
澪は言った。
「別れたあと、仕事が増えて、出版社の担当さんも変わって、税理士さんもついて、生活が整ってきました。お金の不安も減りました。前よりちゃんと眠れる日もあります」
「はい」
「でも、描けなくなりました」
その声が、一番かすれていた。
「二作目のラフを、何十枚も描いています。担当さんは、もっと明るいものでもいいと言います。読者も広がったから、次は少し希望のあるものを、と。私も、その方がいいと思うんです。売れると思います。でも」
澪は、絵本の表紙を見た。
「描くものが、薄いんです」
「薄い」
「前は、鉢の底に穴が空いている感じが、夜中になると本当に体の中にありました。眠れないほど苦しくて、だから描けた。でも最近は、ちゃんとした打ち合わせをして、ちゃんとした企画書を作って、ちゃんとした読者像を考えて、ちゃんとしたラフを描いています」
澪は小さく笑った。
「全部、ちゃんとしているんです。なのに、死んでいる」
巡は、命式の横に今年の運を書き添えた。
土の気が巡ってきていた。
欠けていた場所を、運が補っている。
守護神。
生活を楽にするもの。
同時に、渇きを静かにするもの。
「榊原さん」
「はい」
「今、あなたには土が回ってきています」
「土が」
「足りなかった土を、運が少し補っています。だから生活は整いやすい。お金の管理も、人との約束も、前より現実的にできる。心も、少し落ち着く」
「それは、いいことですよね」
「いいことです」
巡は頷いた。
「ただ、土が入ると、底のない鉢に、仮の底ができます」
澪の目が、巡を見た。
「仮の底」
「水が前より残る。安心も残る。暮らしは楽になります。けれど、底ができると、底がないから見えていた月明かりの入り方が、変わります」
澪は、ゆっくり息を吐いた。
「だから、描けないんですか」
「描けないのではなく、前と同じ描き方では描けないのだと思います」
巡は言った。
「欠けが補われた時、人は少し普通になります。普通になることは悪いことではありません。眠れるようになる。約束を守れるようになる。誰かを過剰に求めずに済む。けれど、欠けから噴き出していた異常な渇きは、少し静かになります」
「私は、普通になったら、描けなくなるんでしょうか」
「普通になりきる必要はありません」
巡は、紙の上の鉢に、もう一本、線を足した。ひびの線だった。
「土が回ってきている時期に、無理に昔の飢えを取り戻そうとしないでください。恋人を失った痛みや、眠れなかった夜を、わざわざ掘り返して燃料にしなくていい」
澪は唇を結んだ。
「でも、作品が薄くなるのは怖いです」
「薄くなったのではなく、光の入り方が変わったのかもしれません」
「光の」
「榊原さんの北には禄存星があります。昔から自分を支えてくれた人や、目上の人に対して、できるだけ尽くしたい。お母様への仕送りも、その星らしい形です」
澪は少しだけ驚いた顔をした。
「母のこと、書きましたっけ」
「さきほど、ご自身で」
「あ」
澪は小さく笑った。笑いはすぐに消えたが、消え方はさっきより柔らかかった。
「そして、南には車騎星があります」
「車騎星」
「前へ進む星です。はっきりさせる星でもあります。子どもや、次の作品や、これから先のものに向かう時、榊原さんの中には急に鋭い力が出る」
巡は、書店の床にこぼれた土を思い出した。
「さっき、鉢を捨てないでください、と言いましたね」
澪の肩が、わずかに固まった。
「見ていたんですね」
「偶然です」
「恥ずかしいです」
「恥ずかしいことではありません。あの声は、誰かを傷つけるためではなく、捨てられそうなものを守るために出た声でした」
澪は視線を落とした。
「ただ、守るための刃は、時々、古い器まで守ろうとします。南の車騎星は、次へ進むための星です。過去の鉢を抱えて走るためではなく、そこから種を外へ出すために使った方がいい」
「『月の鉢』は、底のない鉢の話でした。次に描くものは、ひびの入った鉢の下から生える草の話かもしれません」
澪は、黙った。
黙ったまま、机の上の五つの文字を見ていた。
「九条さん」
「はい」
「私は、偏ったままでいてもいいんでしょうか」
「偏ったまま、偏りに飲まれずに生きることを、考えた方がいいと思います」
「平均を目指さなくていい」
「少なくとも、平均を目指すために、自分の作品の井戸を埋める必要はありません」
巡は、絵本を澪の方へ戻した。
「ただし、一人の恋人や、一人の担当者や、一人の読者に、あなたの土の欠けを全部埋めさせてはいけません。それは相手には重すぎます」
澪は、小さく頷いた。
「分かります。今なら、少し」
「あなたの土の欠けは、一人の人に埋めてもらう穴ではありません。作品を通じて、少しずつ世界と手を繋ぐための隙間です」
「隙間」
「はい」
澪は、その言葉を口の中で繰り返した。
「宿題を、一つ出してもいいですか」
「お願いします」
「週末、どこかの書店に行ってください。ご自身の本を置いている店で構いません。ただし、サインをしに行くのではなく、名乗らずに行ってください」
「名乗らずに」
「児童書の棚の近くで、十分だけ立ってください。もし、あなたの本を手に取る子どもや親御さんがいたら、何も話しかけずに、その手だけを見てください」
「手」
「はい。あなたの鉢からこぼれた水が、どこに届いているのかを、顔ではなく、手で見てください。ページをめくる指、表紙を撫でる指、子どもに読み聞かせる時に本を支える手」
澪は、ゆっくり頷いた。
「それを、見たら」
「帰ってから、次のラフの端に、一つだけ描いてください」
「何を」
「鉢の底から落ちた水滴を、一つ」
澪の目が、少しだけ開いた。
「水滴」
「底のない鉢は、水を留められません。でも、落ちた水は消えるわけではない。紙の上でも、土の中でも、誰かの手の中でも、どこかへ染みます。あなたの次の作品は、鉢の中ではなく、鉢の下から始めてもいいと思います」
澪は、初めて、深く息を吸った。
吸った息が、胸の途中で止まらず、腹の方まで降りていくのが分かった。
「私、恋人に、謝った方がいいでしょうか」
「謝りたいなら、謝っていいと思います」
「戻りたいと言うのは」
「今は、やめた方がいいです」
澪は、少しだけ笑った。
「はっきり言うんですね」
「底のない鉢に戻ってきてください、と言われたら、相手はまた水を注ぐ役になります」
「そうですね」
「謝るなら、『私の鉢を、あなた一人に満たさせようとしていた』とだけ伝えればいいと思います。返事を求めないで」
「返事を求めない」
「土が薄い人は、返事を待つ時間に、穴の底を覗き込みすぎます。謝罪は水を返すことではなく、相手の手から桶を下ろしてもらうことです」
澪は、その言葉に長く黙った。
「桶を、下ろす」
「はい」
窓の外で、風が吹いた。
鉢植えの葉が、かすかに揺れた。底にひびが入っていても、葉はまだ青かった。
帰り際、澪は扉の前で振り返った。
「九条さん」
「はい」
「欠けていることは、治すことではなく、付き合うことなんですね」
「治す時期もあります。補われる時期もあります。ただ、消す必要はありません」
「消したら、私じゃなくなる」
「少なくとも、『月の鉢』を描いた榊原さんとは、違う人になります」
澪は、絵本を胸の前に抱いた。
その抱き方は、来た時とは違っていた。底のない鉢を隠すように抱いていたのではなく、ひびのある器を、落とさないように持っている抱き方だった。
「週末、書店に行ってみます」
「はい」
「水滴を、一つ、描きます」
「はい」
澪が階段を下りていく足音は、来た時よりも遅かった。
遅いが、途中で止まらなかった。
扉が閉まったあと、診断所には、群青の絵の具の匂いが少しだけ残った。
巡は、窓辺の鉢植えを持ち上げた。
ひびの入った鉢の下に、小さな受け皿を置いた。漏れた水を、すぐに捨てないためだった。
それから祖母のノートを開き、五行のページの余白に書き添えた。
「欠けは、悩みの入口であり、才能の井戸である」
少し間を置いて、もう一行。
「守護神は嵐を鎮める。だが、嵐が掘った井戸を埋めるものではない」
最後に、もう一行。
「偏りは、平均に直すためではなく、その人だけの深さとして扱う」
インクが乾くのを待つ間、巡は鉢の受け皿を見ていた。
底のひびから、一滴だけ、水が落ちた。
水滴は受け皿の上で丸くなり、しばらくそのまま震えていた。
一週間後。
澪から封筒が届いた。
中には、ラフ用紙が一枚だけ入っていた。
白い紙の中央に、小さな鉢が描かれている。鉢の底には、細いひび。そこから落ちた水滴が、地面の下へ染みている。地面の下には、まだ芽の出ていない種が一つあった。
紙の隅に、澪の字で短い言葉が添えられていた。
「書店で、女の子が『からっぽでも光るんだね』と言いました」
巡は、その一行を、しばらく見ていた。
それから、ラフ用紙を祖母のノートの五行のページに挟んだ。
窓辺の鉢植えの受け皿には、朝に落ちた水が少しだけ残っていた。
残らないと思っていたものが、別の場所には、ちゃんと残る。
巡は、そのことを、まだ誰にも言わないことにした。
言わなくても、次の芽が出れば、分かることだった。
その夕方、メールに高橋美咲から通知が来ました。
「もう一度、診断をお願いします」
(了)