第五話 月光花

Summary

九条巡の運命診断所

第五話 月光花

藤堂慧からの電話があった夜から、三日が経っていた。

巡は、そのことを誰にも話していない。

一階の養心堂でミチさんに「顔色が悪いね」と言われた時も、春先は眠りが浅くなるのだと答えた。嘘ではない。ただ、全部ではなかった。

あの声は、短かった。

──あのときは、悪かった。

それだけだった。

謝罪の形をしていた。だが、謝罪なのか、確認なのか、あるいは何かの前触れなのか、巡には分からなかった。問いを置いて去っていく人間がいる。村田には自分がそうした。今度は、自分の机の上に、誰かの問いが置かれている。

四月の終わり、午後二時。

診断所の窓辺では、細い蔓を伸ばした鉢植えが、硝子の方へ向かって曲がっていた。水をやりすぎると根が腐る。光が足りなければ、茎だけが頼りなく伸びる。巡は指先で土の乾き具合を確かめ、少しだけ水を差した。

階下から、扉の鈴が鳴る音がした。

足音が上がってくる。軽い。だが、一段ごとに止まりそうになる。来ると決めて来た人間の足音ではある。ただ、来たあとに何を言えばいいのか、まだ決められていない足音だった。

ノックは小さかった。

「どうぞ」

扉が開いた。

入ってきた女性は、黒いスケッチブックを胸に抱えていた。

二十代後半だろうか。髪は肩の少し上で切られ、服は柔らかい灰色と薄い青でまとまっている。目立たない色だった。だが、目立たないように選んだ色というより、紙の余白を汚さないために選んだ色のように見えた。

指先に、薄いインクの跡があった。

「草野千穂です。予約していた者です」

「九条巡です。どうぞ、おかけください」

千穂は椅子に座った。スケッチブックは膝の上に置いたが、両手はその表紙を押さえたままだった。開かないようにしている。あるいは、開いてしまわないように。

「今日は、どのようなご相談でしょう」

巡が問いかけると、千穂はすぐには答えなかった。

視線が机の上を泳いだ。万年筆。月暦。祖母のノート。窓辺の鉢植え。その順番で見て、最後に自分の手元へ戻ってくる。

「私、絵を描いています」

「はい」

「イラストレーターです。広告とか、本の装画とか、最近はゲームのキャラクターも少し」

言葉は丁寧だった。説明の順序も整っている。何度も同じ説明をしてきた人の話し方だった。

「仕事は、あります。ありがたいことに。食べていけないわけじゃないです」

千穂はそこで一度、唇を結んだ。

「でも、最近、描けなくなりました」

「描けない」

「手は動くんです。納品もしています。ラフも切れるし、締切も守れています。ただ──」

スケッチブックを押さえる指に、力が入った。

「自分の線が、分からないんです」

その言葉は、部屋に落ちたあと、しばらく動かなかった。

巡は急かさなかった。

千穂が息を吸った。

「沢井涼さんという人がいます。イラストレーターで、私の先輩です。師匠、というと本人は嫌がると思うんですけど。大学の時から、ずっと目標にしてきた人で」

沢井、と口にした瞬間だけ、千穂の目に光が入った。

「あの人の絵が、本当に好きでした。線が強いんです。でも、乱暴じゃない。色も、明るいのに影が濃くて。人物の目の中に、いつも少しだけ遠い場所がある。見た瞬間に、この人は私が見たことのない場所を見ているんだと思いました」

その説明には熱があった。自分の絵を語る時よりも、ずっと自然だった。

「沢井さんは、私の絵を初めてちゃんと見てくれた人です。二十歳の時、学内の展示で、みんな素通りしていた絵を見て、『余白を怖がらなくていい』って言ってくれました」

千穂は小さく笑った。

「それだけなんです。でも、私はたぶん、その一言で何年も描いてきました」

言葉の終わりに、少しだけ息が混じった。

「大学を出てから、三年ほど沢井さんの仕事場でアシスタントをしていました。背景の下塗りとか、線の整理とか、資料集めとか。二十五の春に独立して、今はフリーで広告や装画の仕事を受けています」

千穂は小さく息を吐いた。

「でも、最初は雑用ばかりでも、近くで見ていられるのが嬉しかったんです」

千穂の指が、スケッチブックの角を撫でた。

「沢井さんがどこで線を止めるのか。どこに光を置くのか。どこを描かずに残すのか。そういうものを、隣でずっと見ていました。独立してからも、迷うと、沢井さんならどうするかって考えてしまいます」

少し間を置いて、千穂は続けた。

「二年目の終わりに、沢井さんの連作が大きな賞を取りました。私はその時、資料を集めたり、背景の下絵を整えたり、色の試し塗りを作ったりしていました。もちろん、絵は沢井さんのものです。沢井さんの力で取った賞です」

言い切ってから、千穂は視線を落とした。

「でも、受賞の記事で『沢井涼の光』って書かれているのを見た時、すごく嬉しかったのに、少しだけ怖くなりました。私が徹夜で拾った影も、消した線も、全部その光の一部になっていく気がして」

そこで、千穂は初めて自分の言葉を聞き咎めたように黙った。

「助けられてきたんです。でも最近、その目が、自分の中から離れなくなって」

巡は机の上に置いた手を、少しだけ緩めた。

言葉は、残る。

祖母の言葉も、自分の言葉も、患者の中に残る。残って救うこともある。残って縛ることもある。

慧の言葉も、そうだった。巡はそのことを思い出しかけて、すぐに千穂の方へ意識を戻した。

「沢井さんの生年月日も、持ってきました」

千穂は鞄から二枚のカードを取り出した。

草野千穂。1997年2月22日。

沢井涼。1985年3月8日。

自分のものより、沢井のカードの方が丁寧に書かれていた。

巡はそれを見たが、何も言わなかった。

「聞きたいのは、向いているかどうかです」

「絵に、ですか」

「はい。私はもう、絵を描くのに向いていないんじゃないかって」

「なぜ、そう思われたんですか」

千穂はスケッチブックの角を親指でなぞった。

「クライアントに言われたんです。『沢井涼っぽい空気があっていいですね』って。褒め言葉だったと思います。実際、その案件は通りました。担当さんも喜んでくれました」

声が、少しだけ小さくなった。

「でも、胸のあたりが冷たくなって。嬉しいはずなのに、消えたくなりました」

「沢井さんっぽいって、よく言われるんです。褒め言葉みたいに言われる時もあります。まだ沢井さんの影にいる、という意味で言われる時もあります。どちらにしても、私はうまく笑えなくて」

巡は二人の命式を出した。

筆先が紙の上を進む。十干。十二支。星。五行。数字の列が静かに形を取っていく。

草野千穂。

日柱、乙未。乙木。夏の終わりの土に根を張る草花。

中心は石門星。南に玉堂星。東と西に禄存星。中年期に天将星。五行は木が七十八。金が十七。

沢井涼。

日柱、丙午。丙火。真昼の太陽。火の上に立つ火。

中心は玉堂星。南と西に調舒星。東に牽牛星。金は十一。

巡は、紙の上に二つの命式を並べた。

草花と太陽。

あまりにも見えやすい構図だった。見えやすい構図ほど、言葉を急ぐと浅くなる。

「草野さん」

「はい」

「まず、一つだけ先に言ってもいいですか」

千穂が顔を上げた。

「沢井さんに照らされた時間は、本物だったと思います」

千穂の指が止まった。

「え」

「沢井さんの影響を受けたことも、沢井さんの絵を学んだことも、あなたが誰かの真似をして逃げたということではないと思います」

千穂は何かを言おうとして、言えなかった。

まぶたが一度だけ震えた。

「みんな、そこを飛ばすんです」

小さな声だった。

「友達は、自分らしく描けばいいって言います。編集さんは、草野さんの色を見たいって言います。SNSでは、影響元があるのは悪いことじゃないって言われます。独立したなら、もう離れればいいって言う人もいます。でも、誰も──」

言葉が途切れた。

「誰も、沢井さんから離れたいのに、沢井さんを否定したくはない私のことは、分かってくれない」

巡は頷いた。

「大切な人なんですね」

「はい」

千穂は即答した。即答したあとで、自分でも驚いたように目を伏せた。

「だから苦しいです。沢井さんから離れたいと思うことが、裏切りみたいで」

巡は二つの命式の間に、細い線を引いた。

「あなたは乙木です。草花や蔦の木。大きな幹で一人立つというより、光のある方へ曲がりながら伸びていく木です」

「草花」

「沢井さんは丙火。太陽です。そこにいるだけで周囲を照らす火。草花は、太陽があるから咲きます」

千穂は小さく頷いた。

「そうだと思います。私は、沢井さんがいなかったら、咲けなかった」

「ただ、五行にはもう一つの見方があります」

巡は紙に「木生火」と書いた。

「木は、火を生みます」

千穂の視線が、その三文字に止まった。

「つまり、あなたは沢井さんに照らされていただけではありません。あなたの憧れや、学びや、模倣や、献身が、沢井さんの火を強く見せてもいた」

「私が、沢井さんを?」

「はい」

巡は慎重に言葉を選んだ。

「賞を取った作品も、沢井さんの作品です。けれど、その火がより遠くまで見えるように、草野さんの手があった。師匠が弟子を育てるだけではありません。弟子のまなざしや手仕事が、師匠を太陽にすることもあります」

千穂は黙った。

沈黙の中で、階下から薬研の音がかすかに聞こえた。乾いたものが砕かれる音。香りのある根が、粉になっていく音。

「じゃあ」

千穂が言った。

「私は、燃料だったんですか」

巡はすぐには答えなかった。

その問いは、危険だった。ここで頷けば、沢井は加害者になり、千穂は被害者になる。そうすれば物語は分かりやすくなる。だが、千穂のこれまでの時間が嘘になる。

「燃料だけではありません」

巡は言った。

「咲いた花です」

千穂の目が揺れた。

「あなたの木が沢井さんの火を生んだことは、あると思います。でも、それは、あなたが利用されただけだという意味ではありません。草花は太陽に照らされて咲く。咲いた花があるから、太陽の光がそこに届いていたことも分かる」

巡は窓辺の鉢植えに目をやった。

「ただ、花は太陽の所有物ではありません」

千穂は視線を落とした。

その言葉が、ゆっくりと体の中に沈んでいくのを待つような沈黙だった。

「模写は、嘘でしょうか」

千穂が尋ねた。

「私はずっと、沢井さんの絵を分解していました。アシスタントをしていた時も、独立してからも。線の揺れ方、光の置き方、色の濁らせ方。どこで視線を止めるか。余白をどう残すか。そうやって覚えたものが、今の私の仕事になっています」

「嘘ではないと思います」

「でも、私のものでもない」

「最初から自分のものだった技術なんて、ほとんどありません」

巡は自分の指を見た。外科医の手。祖母のノートをめくる手。誰かの言葉を書き写してきた手。

「学ぶというのは、最初は誰かの線をなぞることです。模写は、種まきに近い。土に落ちた種が、どこの花から来たのかを探す必要はありません。ただ、芽が出た後も、ずっと種の形に戻ろうとすると苦しくなる」

千穂は、スケッチブックの表紙に置いた手を少し動かした。

「開いても、いいですか」

「もちろん」

千穂は深く息を吸ってから、スケッチブックを開いた。

ページには、これまでの仕事が並んでいた。化粧品広告のキービジュアル。文庫の装画。ゲームのキャラクター案。どれも完成度は高かった。依頼された空気を読み、見る人の目がどこで止まるかまで計算されている。

「これは、春のキャンペーン用です。もっと明るく、もっと手に取りやすくと言われて。こっちは装画で、担当さんに、少し沢井さんっぽい影がある方が売り場で目立つと言われました」

千穂はページをめくった。

「SNSに上げたら、一番伸びたのはこれです。顔を大きくして、色を少し強くしたら、保存数が増えました」

説明は滑らかだった。仕事の話になると、千穂は迷わず言葉を選べる。相手が何を望み、何を不安に思い、どこに喜ぶのかを、よく見ている人の話し方だった。

「草野さんは、依頼主を見るのが上手なんですね」

千穂の手が止まった。

「そう、なんでしょうか」

「広告の絵は、相手の意向を汲み取る仕事です。売れること。覚えてもらうこと。誰かの目に止まること。それ自体は、悪いことではありません」

巡はページの上に視線を落とした。

「ただ、見すぎてしまうと、絵を描く前から、相手の正解が先に立ってしまう」

千穂は小さく息を吐いた。

「はい」

「沢井さんならどう見るか。編集さんならどう直すか。SNSならどこが伸びるか。そういう声が、描く前から聞こえている」

「聞こえます」

即答だった。

「自分の絵を描きたいと思って始めたはずなのに、いつの間にか、誰かの正解に届く絵ばかり描いています」

「草野さんの命式には、木が強く出ています。憧れという種から根を伸ばし、芽となり育つ力、形を変えながら生きる力が強い。中年期には、とても大きな星もあります。本来は、人の影に隠れるには大きすぎる器です」

「大きすぎる」

「中心にあるのは石門星です」

「石門星」

「人と人の間に立つ星です。一人で閉じて強くなるより、誰かとつながり、輪の中で自分を保とうとする。だから、誰かに見てほしいと思うことも、評価が気になることも、草野さんにとっては不自然なことではありません」

千穂は、少しだけ眉を寄せた。

「悪いことじゃないんですか」

「悪いことではありません。絵を描く人が、人とつながりたいと思う。それは弱さではなく、本能に近いものです」

その言葉を聞いた瞬間、千穂の肩から、ほんの少し力が抜けた。

「でも」

「はい」

「私は、そのせいで苦しくなったんでしょうか」

「つながるための絵が、合わせるための絵になってしまったのだと思います」

千穂の目に、初めて怒りに近いものが灯った。

「そうです。私が描きたかったのは、人に合わせる絵じゃなかったはずなのに」

「つながりを捨てる必要はありません」

巡はページを閉じるようには促さなかった。

「沢井さんから学んだ絵。仕事の絵。人に見せる絵。SNSに上げる絵。それらを急に否定しなくていい。生活もありますし、感謝もあります。石門星の人が、人の輪の中で描くことも、間違いではありません」

「じゃあ、どうすれば」

巡は少しだけ考えてから、机の上の名刺を一枚取った。

「仕事として、一枚お願いしてもいいですか」

千穂が顔を上げた。

「仕事、ですか」

「はい」

「どういう絵を」

「僕をイメージして、作品を一枚お願いします」

千穂は、名刺を見たまま固まった。

「九条さんを、ですか」

「僕そのものを描かなくて構いません。似顔絵でも、説明用の図でもありません。型は決めません。色も、構図も、題名も、草野さんに任せます」

「でも、依頼なら、目的が」

「診断所に置きたいんです。ただ、草野さんの絵が。今回は僕から口を出しません。こうした方が売れるとか、見られるとか、分かりやすいとか、そういう指定もしません」

巡は言葉を一つ置いた。

「草野さんが、僕という依頼主とつながって、受け取ったものを描いてください」

千穂はしばらく黙っていた。

「それは、すごく怖いです」

「はい」

「正解がないから」

「正解をこちらが持たない依頼です」

千穂は名刺を見つめた。

「でも、逃げたくはないです」

「どうしてですか」

「私はたぶん、一人で閉じて描きたいわけじゃないからです」

それで十分だった。

診断が終わる頃、窓の外の光は薄くなっていた。春の夕方は、明るさを残したまま温度だけが先に下がる。

千穂はスケッチブックを閉じ、鞄にしまった。

「九条さんをイメージした絵」

「はい」

「正解は、ないんですよね」

「僕の中にはありません」

千穂は鞄の紐を握り、窓辺の鉢植えを見て、少しだけ目を細めた。

「分かりました。受けます」

扉の前で、千穂は振り返った。

「九条さん」

「はい」

「私は、沢井さんに照らされて咲いたんですよね」

「そう思います」

「でも、咲いた花は、太陽のものじゃない」

「はい」

千穂は初めて、少しだけまっすぐ笑った。

「それなら、まだ描ける気がします」

彼女が出ていったあと、診断所には紙の匂いが残った。インクと、少しだけ古い鉛筆の匂い。

巡は窓辺の鉢植えを見た。

細い蔓は、相変わらず硝子の方へ伸びている。光のある方へ曲がることは、間違いではない。だが、根は土の中にある。光へ伸びることと、根を失うことは、同じではない。

何年もの間、巡は慧の言葉を反芻しては、自分で自分を縛り直してきた。

その結び目に触れるには、まだ少し早い。

机の上のスマートフォンが、短く震えた。

画面には、高橋美咲の名前があった。

『ミチさんに聞いた薬草、今日買えました。少し眠れるようになりました。ありがとうございました』

短いメッセージだった。

巡はしばらく画面を見ていた。

返信欄に指を置き、少し考えてから、短く打った。

『よかったです。無理をしすぎないでください』

送信してから、巡は手帳を開いた。

草野千穂──乙未。

その横に、万年筆で書き添えた。

「憧れを、根に変え、いつか花となる」

インクが紙に沈むまで、巡はしばらく待った。

窓の外で、日が傾いていた。

太陽は、誰のものでもない。

二週間後、千穂からメールが届いた。

件名は短かった。

ご依頼の絵です。

添付された画像を開くと、淡い紙の地に、墨の山並みが沈んでいた。金の粒が、霞の中に散っている。画面の上には、強い太陽ではなく、白く薄い月があった。

右下に、白い花が咲いていた。

輪郭は柔らかく、光は弱い。けれど花は、誰かに照らされるのを待っているようには見えなかった。夜の中で、そこにあるだけだった。

画面の下に、小さく題が入っていた。

月光花。