第四話 播種
第一幕:松本との電話
あの日から二週間が経っていた。
村田健一は怒っていた。最初の一週間は、純粋に怒っていた。あの占い師は何も分かっていない。被害者の俺に「お前にも非があるんじゃないか」と言った。裏の大地だの豊かな土だの、きれいなことを言った直後に、いきなり足元を蹴った。二度と行かない。
だが、二週目に入って、怒りの質が変わった。
──嘘だけで、顧客は動きますか。
あの問いが、抜けない。
怒りの底に、小さな穴が開いていた。そこから、別の何かが漏れ出してくる。
寝る前に天井を見つめていると、佐伯の顔が浮かぶ。怒って思い出すのではない。ただ──浮かぶ。佐伯が笑っていた頃の顔。佐伯が黙って帰っていった背中。2019年の冬、大型案件の納品日の翌朝、佐伯がオフィスに来た時の顔。目の下に隈があった。「どうした」と聞いたら、「昨日、顧客に説明してきた」とだけ言った。
何を説明したのか、聞かなかった。聞く必要がないと思った。佐伯の領域のことだから。
──あれは、どんな説明だったんだろう。
俺が見ていなかった場所で、あいつは何をしていたんだろう。
怒りの穴から漏れ出してくるのは、問いだった。あの占い師への怒りではなく、佐伯に対する──いや、自分自身に対する問い。
──俺は、あいつの何を見ていたんだ。
スマートフォンの連絡先を開いた。松本遼。三十三歳。高校を中退して、十九歳で村田の会社に拾った最初の従業員だ。
連絡する勇気が出なかった。自分が会社を失って、彼らの居場所も奪った。その顔を見るのが怖かった。
でも──松本なら知っているかもしれない。佐伯が俺に見せなかった顔を。俺の畑の外で、何が起きていたかを。
村田は通話ボタンを押した。
二回の呼び出し音のあと、声が聞こえた。
「……村田さん?」
変わらない声。少しだけ、驚きが混じっていた。
「松本。久しぶり。……元気か」
「はい。元気です。村田さんは……」
「俺はまあ、生きてる」
沈黙が一瞬、二人の間に降りた。
「……連絡くださると思ってませんでした」
「悪かった。もっと早く連絡すべきだった。……お前、今どうしてるんだ」
「グロースラボっていう会社にいます。B2BのSaaSやってて、企業の人材育成プラットフォームを作ってるんです。一応、PdMやってます」
「PdM……? プロダクトマネージャーか。お前が」
「そうです。コードはもうほとんど書かないんですけどね」
村田は一瞬、何かを呑み込んだ。自分が育てた十九歳の落第少年が、今はプロダクトを預かる立場になっている。十二年の月日が、確かにそこにあった。
「……あの会社がなくなってから、どうしてたんだ」
「すぐに動きました。半年くらいフリーランスで小さな仕事を回して、2024年の秋にグロースラボに入りました。最初はシニアエンジニアで。一年でPdMに上げてもらったんで、村田さんに教わった設計の考え方は役に立ちましたよ」
「……俺の教えたのが役に立ったのか」
「当たり前ですよ。十二年も見てましたから」
二人の間に、小さな沈黙が降りた。
「松本。お前に聞きたいことがある」
「はい」
「佐伯のことだ」
名前を出した瞬間、受話器の向こうの空気が変わった。松本が少し息を整える気配がした。
「佐伯が俺の悪い噂を流してた。お前は──知ってたか」
一拍の間。
「……知ってました」
村田の指が握られた。
「知ってたのか」
「全部じゃないです。でも、顧客に言ってるのは聞いたことあります。『村田さんは技術にこだわりすぎてて、ビジネス側が見えてない』って」
「それは嘘だ──」
「嘘じゃなかったです」
松本の声が、静かに、はっきりと言った。
村田は言葉を失った。
「村田さん。俺、村田さんにコードを教えてもらって、技術者としての土台は全部作ってもらいました。感謝してます。でも──」
松本が言葉を選んでいるのが分かった。
「佐伯さんが毎回顧客に頭下げてるの、見てました。村田さんが納期遅らせた時、佐伯さんは真っ先に顧客のところに行ってた。土下座まではいかなかったけど、あと一歩くらいのところまでは行ってましたよ。あの顔、村田さんは見てなかったでしょうけど」
村田は何も言えなかった。
見ていなかった。見る必要がないと思っていた。佐伯がやってくれていたから。
「俺、二回くらい、佐伯さんに言ったんです。『村田さんに納期の話、した方がいいですよ』って。そしたら佐伯さん、『村田さんの技術があってこその会社だ。顧客には俺が説明する』って。あの時の顔——あれは、村田さんを守ってる顔でしたよ」
村田の胸の奥で、何かが軋んだ。
「……守ってた?」
「最初は。最初は守ってたと思います。でも、何年もそれが続いたら──俺だったら、って思います。ずっと自分が尻拭いして、でも技術は相手のもので、自分の仕事は調整だけ。評価されるのは相手で、自分は謝りに行くだけ。それが何年も続いたら──」
松本は言葉を切った。
「……佐伯さん、最後の方は笑わなくなってました。村田さんは気づいてなかったかもしれませんけど」
気づいていなかった。佐伯が笑わなくなったことなんて、一度も気にしたことがなかった。
あの占い師の声が蘇った。
──嘘だけで、顧客は動きますか。
動かない。嘘だけでは動かない。佐伯が顧客と築いた関係があったから、顧客は佐伯について行った。その関係は──佐伯が毎回、頭を下げに行っていたから築かれた。俺が見ていなかった場所で。
「松本。……佐伯が新しい会社を作った時、お前も誘われたのか」
「はい。誘われました」
「なんで断った」
「村田さんに恩があるから。……それに、あの会社に行きたくなかったんです」
「どうして」
「佐伯さん、村田さんのこと、悪く言ってたんです。独立する頃にはもう、『村田は俺の努力に気づいてもいなかった』『全部俺がやってた』って。でも──」
松本が言い淀んだ。
「でも、それは嘘じゃなかったです。村田さん」
受話器の向こうで、松本が一度だけ深呼吸した。
「村田さんは技術でした。それは本当です。すごかったです。でも、それだけじゃ会社は回らない。佐伯さんが回してた部分を、村田さんは──見てなかった。見る必要がないと思ってた。俺も含めて、チームの連中もそう思ってました。『村田さんは技術だけやってくれればいい』って。でも、それは──村田さんが作った住み分けじゃなくて、村田さんが作った壁だったと思います」
壁。
村田は天井を見上げた。アパートの薄い天井。染みが一つ、目の前にある。
自分が作った壁。技術と営業の住み分けだと信じていたものが、実は自分が見たくないものを遮る壁だった。
「……松本。佐伯は──今、どうしてる」
「起業して、そこそこ上手くいってるみたいです。でも──」
「でも?」
「あの会社、元同僚から聞いたんです。技術者を社内に置かない方針だそうです。全部外注。コードを書く人間を社内に置かない。それを聞いて思いました──佐伯さんも、村田さんを失ったんだって」
村田の目が熱くなった。
佐伯も失ったのか。自分を。自分の技術を。自分が育てたチームを。
──俺はずっと、あいつが俺から全部奪ったと思ってた。でも、あいつは俺が見てなかった世界でずっと動いてた。俺の影で。俺が作った壁の外で。
──あいつは嘘を流した。でも、嘘の中に本当が混ざっていた。あいつが俺の「見てない部分」を背負っていたのは、本当だった。
──俺から奪ったんじゃない。俺が見なかったものを、あいつが拾ってた。それを「俺のおかげだ」と言えなくなった時──あいつは、あいつ自身も失ったんだ。
「松本。……ありがとな」
「いえ。……村田さん、一つだけ」
「なんだ」
「村田さんは強い人です。技術も、人を育てる目も。でも──一つだけ、苦手なことがありました。人の苦労を見ることです。佐伯さんがどれだけしんどかったか、村田さんは気づかなかった。俺は両方見てましたから」
松本の声に、迷いがなかった。
「でも──それだけじゃないと思います。村田さんの中にあるもので、村田さん自身がまだ気づいてないものがある気がします。……すみません、うまく言えないんですけど」
沈黙があった。
そして、通話が切れた。
村田はスマートフォンを置いた。画面が暗くなる。
二週間前の、あの瞬間を思い出した。あの占い師が、何かを言いかけて止めた瞬間。涙を流している最中に、別の問いを投げてきた瞬間。
あの時は怒った。被害者の俺に、「お前にも非がある」と言われた気がした。
──でも、あいつは「お前にも非がある」とは言わなかった。
あいつが言ったのは、「嘘だけで顧客は動くか」だった。それだけだった。答えは言わなかった。俺が自分で気づくように、問いだけを置いた。
──そして俺は、松本に聞いて、自分で気づいた。
あの先生は、俺にも非があると言いたかったんじゃない。俺が見ていなかった世界があると、気づかせようとしたんだ。
──あの先生にも、聞いてないことがある。何かを言いかけて、止めた。あれは、何だったんだ。
村田はスマートフォンを手に取った。着信履歴を探した。
九条巡命診断所の番号は見つからなかったが、あの時、受付で渡された名刺を──捨てていなかった。
財布の奥から、少し折れ曲がった名刺を引き出した。
「二度と来ねえよ」と言った自分の声が蘇った。
──生意気なことを言ったもんだ。
村田は通話ボタンを押した。
第二幕:二回目の診断
村田健一が養心堂の階段を上がってきた時、巡は手帳を書いていた。
足音を聞いた瞬間、巡の手が止まった。
この足音を、巡は覚えていた。三週間前、怒りで重く速い足音が階段を降りていった。今日の足音は──重いが、速くはなかった。一段ずつ、確かめるように上がってくる。
村田がドアの前に立った。
無精髭はない。ジャケットの染みもない。目元の充血は引いていた。代わりに、何か別のものが目に宿っていた。恥じらいのような、覚悟のような──両方が混ざった光。
「……先生」
「村田さん。お待ちしておりました」
「待ってた? 二度と来ねえって言ったのに?」
「はい。待っていました」
巡の声は静かだった。だが、その静けさの中に、三週間分の何かが込められていた。
村田は椅子に座った。前回のように乱暴に腰を落とすのではなく、ゆっくりと。
「先生。……あの時は、すみませんでした」
「いいえ。あの問いは、早すぎました。こちらこそ」
村田が巡を見た。
「先生も……分かってたのか。早すぎたって」
「あなたが帰った後に、分かりました」
巡は正直に答えた。
「言い訳はしません。あなたが泣いた直後の心が最も開いている瞬間に、問いを投げました。外科医の癖です。自分のエゴです。回復の兆候が見えた瞬間に、次の処置に移ろうとする。でも──この仕事は、手術ではない。待つべきでした」
村田は黙って聞いていた。
「あなたが怒ったのは、正しかった。」
「……先生。俺、松本って後輩に電話したんです。以前19歳のガキを育てたって話のあの後輩です。」
「松本さん」
「あいつから、全部聞きました。佐伯がどれだけ頭を下げてたか。俺が見てなかったものを、あいつが全部拾ってたこと。……先生の問いの答えが、分かりました」
村田は一呼吸置いた。
「嘘だけじゃ、顧客は動かない。佐伯が顧客と築いた関係があったから、顧客は佐伯について行った。俺が見てなかった場所で、あいつが積み上げてきたものがあったから」
巡は頷いた。
「それを聞いてから──先生が言いかけて止めたことが気になった。あの時、何を言おうとしたんですか」
巡は命盤を開いた。
「前回、天将星についてお話ししました。エネルギー十二。並外れた力。人を自然と動かしてしまう──と言いましたね」
村田が小さく頷いた。
「今日お伝えしたいのは、その田畑の土が、なぜ壁になったのかです」
「前回、あなたの畑は圧倒的に豊かだとお話ししました。十九歳の松本さんを拾って、半年でコードを書けるようにした──それは本物の力です。天将星の力と、あなたの土そのものの力の両方がありました」
「……ああ」
「ですが──豊かすぎる土は、時に外からのものを飲み込んでしまう。相手の苦労も、相手の言葉も。土が豊かすぎて、見えなくなっていく。天将星の引力が、それをさらに強めていました。悪意ではありません。豊かさが生む構造です」
村田の表情が変わった。三週間前なら、怒ったかもしれない。だが今は──「知っている」という顔だった。
「……松本にも、同じことを言われました。俺が作ったのは住み分けじゃなくて壁だったって」
「松本さんは、よく見ていたのですね」
「あいつは両方見てたんです。俺の畑の中と、佐伯の畑の外を。俺だけが──片方しか見てなかった」
村田の手が膝の上で握られた。前回とは違う握り方だった。何かを掴もうとする握り。
「先生。……俺は加害者だったのか」
「いいえ」
巡は首を振った。
「加害者でも被害者でもありません。二人とも、見えていた世界が違った。あなたは畑の中を見ていた。佐伯さんは畑の外を見ていた。どちらも、自分の世界では本気だった。ただ──お互いの世界が、見えていなかった」
沈黙が降りた。
村田は自分の手を見ていた。
「先生。……もう一つ、聞いていいですか」
「はい」
「俺は──これから、何をすればいいんですか。その天将星っていうものがあって、己卯は、自分の国を築く人だって言われて。でも俺、会社を大きくしたかったわけじゃないんです。偉くなりたかったわけでもない」
村田の声が、少し変わった。硬さが抜けて、もっと素朴な響きになった。
「俺がやりたかったのは……コードを書くことと、人を育てることだったんです。松本が半年で書けるようになった時の顔。あの──目が変わる瞬間。ああ、こいつは分かったんだって。あの瞬間が、嬉しかったんです。それだけだったんです」
巡は、村田の命盤を見た。己の土。田畑の土。己卯。表の土と裏の土。そして石門星。
──今だ。
三週間前、伝えられなかった言葉。今なら届く。
「村田さん。前回、言いかけて止めたことが、実はもう一つあります」
村田が顔を上げた。
「あなたの命式には、石門星という星があります」
「……石門星」
「人と協調し、人と連帯することで力を発揮する星です。一人で城を守るのではなく、人と組んで動く力。あなたの己の土──田畑に種を蒔き、人を育てる力──と、この石門星は、深く結びついています」
巡は一呼吸置いた。
「あなたが本当にやりたかったことは、会社を大きくすることでも、トップに立つことでもなかった。人を育て、人と一緒に作ること。それはまさに──己の土と石門星が示している、あなたの本質です」
村田の目が揺れた。
「前回お伝えしなかったのは、あなたがまだ『組む』という言葉を受け止められる状態ではなかったからです。裏切られた直後に『あなたは人と組む力がある』と言われても──」
「……信じられなかっただろうな。確かに」
村田は小さく笑った。苦いが、温かい笑み。
「先生。……次は、気をつけます」
「何をですか」
「壁を作らないように。俺の力が、相手に相談させにくくしてたなら。次は、それを知った上で、やり方を変えます」
巡は頷いた。
「あなたの土は、三週間前より深くなっています。己卯の人が自分の壁に気づくことは、そのまま土を深くすることです。次に蒔く種は──その深い土の上に落ちます」
村田は立ち上がった。
「先生。……ありがとうございました」
「階段、気をつけて」
「はい」
村田はドアを開けた。
「……村田さん」
村田は立ち止まった。
「実は……」
巡は小声で村田に一つだけお願いをした。
村田は何も聞き返さず、小さく頷いた。
村田は部屋を出た。足音が階段を降りていく。今度は、落ち着いて。
第三幕:播種
スマートフォンが鳴った。
巡は手帳に書き物をしていた手を止めた。画面には「村田健一」の名前。
「──九条です」
「先生。村田です。……少し、報告したいことがありまして」
声が違った。前回の「静かな問い」とも違う。もっと軽い。照れているような響きが混じっていた。
「松本──前にお話しした、俺が育てた後輩なんですけど。あいつから、仕事の相談が来たんです」
「仕事の相談」
「はい。あいつが今いる会社で、人材育成のプラットフォームを作ってるらしくて。APIの設計──システム全体の骨組みの部分で、最初から正しく組み立てる目が必要だと。それで、技術顧問として関わってくれないかって」
村田の声が、少し上ずった。すぐに咳払いで抑えた。
「……俺にですよ。無職の四十六のおっさんに。あいつ、全体設計は俺にしかできないって言うんです。生意気なんですけど──実装力は自分の方が上だって言いやがって」
巡は受話器の向こうの空気を、静かに感じ取っていた。
「それだけじゃなくて、新人の育成もやってくれって。あいつ、プロジェクトを回すのは得意だけど、人に教えるのは苦手だって。俺が得意だったのはそこだろうって。……まあ、それは認めますけど」
村田の声に、隠しきれない嬉しさが滲んでいた。それを本人も自覚しているらしく、言葉の端々で照れ隠しの咳払いが入る。
「ただ──あいつ、最後にこう言ったんです。『昔の教え方は駄目ですよ。パワハラに厳しいんです、今の会社。口調も、距離感も、全部変えてもらいますから』って」
巡は受話器の向こうで、村田が苦笑しているのを感じた。
「生意気言いやがって、って思いましたよ。でも──嬉しかったんです。あいつが俺に遠慮しないで言ってきた。俺がやり方を変えなきゃいけないって、あいつが真っ直ぐ言える関係になってた。……俺が育てたのに、いつの間にか対等になってた」
村田は一拍置いた。
「先生が言ってたこと──石門星。人と組む力。あれが、こういう形で来るとは思いませんでした」
巡は小さく息を吐いた。
「それで──受けるおつもりですか」
「……考えてます。でも、たぶん受けます。あいつの会社が人材育成をやってるって聞いた時に──俺がやりたかったことって、結局これだったんだなって。コードを通して、人を育てること。会社を大きくすることじゃなかった。偉くなることでもなかった。あいつが作ってる場所に、俺の土が必要だって言われた──それが、なんか」
言葉が途切れた。
「……すみません。うまく言えないんですけど」
「いえ」
巡の声は静かだった。
「十分です」
短い沈黙があった。
「先生。……壁は作りません。今度は」
「はい」
「天将星のせいにはしませんけど──俺の力が、相手を息苦しくさせてたのは、たぶん本当なんで。松本にも、同じことをしないように。あいつが遠慮なく言えるように──そっちの方を、気をつけます」
「それが、次の畑の作り方ですね」
村田は受話器の向こうで、小さく笑った。
「先生。ありがとうございました。……また来ます。何かあったら」
「いつでも」
通話が切れた。
巡はスマートフォンを机に置いた。
手帳を開いた。「村田健一──己卯。未了」の文字。三週間前に書いた一行。
その横に、万年筆で書き足した。
「村田健一──己卯。播種」
万年筆を置いた。
──問いは、棘として残った。毒ではなかった。
あの日、問いを投げるのが早すぎた。それは巡の失敗だった。だが、問い自体は間違っていなかった。村田が自分で松本に電話をして、自分で答えを見つけた。巡がしたのは──いや、巡がしたことで正しかったのは、問いを置いたことではなく、待ったことだ。
伝えることも、伝えないことも、早すぎることも──すべてが、この仕事の一部だった。
桜の花びらが一枚、風に乗って窓枠に止まった。
巡は手帳を閉じて、棚に戻した。
四月の夕暮れが、窓から差し込んでいた。
スマートフォンが音もなく光った。
着信。非通知。
画面を見た。巡の手が止まった。
鳴り続けている。
一秒。二秒。三秒。
巡は出た。
「──九条です」
受話器の向こうで、息を吸う音がした。
「あのときは……」
沈黙があった。
「……悪かった」
その一言で、全身の血の温度が変わった。
この声を──忘れるはずがなかった。何度も夢に出てきた声。何度も理由を探し、何度も消そうとして消せなかった声。
藤堂慧。
巡は何も言えなかった。手帳に書いたばかりの「播種」の文字が、まだ胸に残っている。村田が自分の足で答えを見つけた、その温かさがまだ冷めやらぬ中で──あの声が。
それだけだった。
通話は切れた。
巡はスマートフォンを握ったまま、窓の外を見ていた。
窓枠に止まっていた桜の花びらが、風に乗って飛んでいった。