第三話 箱の外の龍

Summary

九条巡の運命診断所

第三話 箱の外の龍

一階から、かすかな声がした。

高橋美咲がまたミチさんの店に来ているらしかった。薬を買いに来たのか、それとも別の用があったのか。二人の会話が、床板越しに断片的に上がってくる。笑い声が混じっている──ミチさんの乾いた笑いと、美咲のすこし高い笑い。気が合っているようだった。

美咲がこの建物に来るようになったのは、鑑定から三週間後のことだった。理由は「ミチさんに聞いたら、体に良い薬草を教えてもらえると聞いて」。巡に会いに来たわけでは、ない。それはわかっていた。

日曜の午後三時。

巡は机の前に腰を下ろし、祖母・九条さくらが遺した古いノートを静かにめくっていた。

表紙は紫紺の布地で、手作りされたものだ。何度も何度も開かれたページには、シミや色褪せが目立つ。その中でも「龍高星」と題された一ページに、巡は何度も視線を走らせていた。

祖母の丸みを帯びた崩し字。龍高星とは──冒険と探求、型にはまらない知性を司る星。

そのとき、扉が静かにノックされた。巡はノートを閉じて、いつもの穏やかな表情に戻る。

「どうぞ」

一階の漢方薬店「養心堂」を通り、狭い階段を上がってくる足音がした。

前を歩くのは、きちんとした紺のワンピースを着た女性だった。髪は整えられた黒い短髪。化粧に乱れはなく、背筋には一本の鋼が通っている。森川真紀。

その後ろを、パーカーのフードを深く被った十六歳の少女が歩いていた。森川陽菜。フードの奥で、スマートフォンの光が少女の横顔をぼんやり照らしている。

「はじめまして。今日はお越しいただきありがとうございます」

巡は二人を椅子へ案内した。母親は身を正して座り、娘は椅子に斜めに腰を下ろし、相変わらずスマートフォンから目を離さない。

真紀が口を開くまで、三秒もかからなかった。

「お時間をいただいてすみません。この子のことで、ずっと悩んでいまして」

巡は柔らかく頷きながら聞いた。真紀の言葉は、堰を切ったように溢れ出した。

「半年前から学校に行っていないんです。理由を聞いても『別に』としか言わない。学校には連絡していますし、担任の先生にも何度もご相談しました。カウンセラーにも通わせましたが、効果がありません。このままでは大学受験に間に合いません」

真紀の声には、焦りと怒りが混在していた。正義感が、切迫した音色に変わっている。

「勉強だって、やろうと思えばできるはずなんです。甘えているだけなんじゃないかと。でも、無理に行かせるのも──いえ、甘やかすのも──」

母親の声が詰まった。怒りの奥にある不安が、一瞬だけ顔をのぞかせた。

陽菜は相変わらずフードの中にいた。スマートフォンの画面だけが、彼女の存在を証明していた。

巡は真紀の話をすべて聞き終えてから、ゆっくりと陽菜の方に視線を移した。

「お母さんのお話は伺いました。では──陽菜さん」

巡は静かに、しかし確かな声で言った。

「あなた自身は、どうしたいの?」

フードの中が、一瞬だけ静止した。

おそらく、誰も聞いてくれなかった問いなのだろう。母親の怒り。先生の心配。カウンセラーの分析。世間体の圧力。すべてが「どうすべきか」だけを押し付けてきたはずだ。「どうしたいか」は、誰も聞かなかった。

陽菜がゆっくりとフードを外した。肩にかかる黒い髪の中から、少女の顔が現れた。目は大きく、その眼差しには、迷いの中にも確かな意志の光があった。

「……別に」

短い言葉だったが、それは無関心ではなく、言葉にならない何かを、必死に抱えている人間の声だった。

巡は立ち上がり、筆と手帳を取り出した。

「お二人の生年月日を教えていただけますか」

巡は小さなカードを二人に渡した。

「こちらに、お名前と生年月日を手書きでご記入ください」

真紀が万年筆を受け取り、丁寧に文字を綴った。

『森川陽菜 2010年11月30日』

『森川真紀 1985年2月20日』

巡はカードを受け取り、二つの命式を素早く算出していく。数字が並び、干支が浮かび、星が配置される。

やがて、巡の手が止まった。

二つの命式を並べたとき、巡の目に映ったのは金剋木だけではなかった。

【母親:森川真紀】
生年月日:1985年2月20日
日干:庚(金の陽・鋼鉄)
十大主星:北=司禄星 南=龍高星 東=玉堂星 西=禄存星 中=禄存星
天中殺:午未天中殺
五行:木96 土81 火48 金19 水24
総エネルギー:268
 
【娘:森川陽菜】
生年月日:2010年11月30日
日干:甲(木の陽・大木)
十大主星:中=龍高星 南=調舒星 東=貫索星 北=車騎星 西=車騎星
天中殺:午未天中殺
五行:木63 水48 金32 土28 火26
総エネルギー:197

まず目に入るのは、金と木だった。

母は庚金。娘は甲木。鋼鉄の斧と、まっすぐ伸びようとする大木。金剋木──この母娘の痛みは、そこから始まっている。

けれど、それだけではなかった。

真紀の五行──土八十一。中央と西に禄存星が二つ。北には司禄星。奉仕の土と、蓄積の土。愛する人のために与え、正しい形を積み上げていく土が、三方からこの人を支えている。

万年筆が、ノートの上で止まった。インクが紙の繊維にじわりと滲んで、小さな染みを作った。

この母親の命式には、愛情がないわけではない。むしろ、愛が多すぎる。禄存星×2。司禄星。奉仕と蓄積の土が、何層にも重なっている。愛する人に与えたい、尽くしたい、守りたい。正しい形に整えておきたい。庚寅──開拓の刃。春の山を切り開く意志力。その刃の硬さに、愛の土が重なっている。

巡は一秒、静止した。二秒。この命式を前にすると、喉の奥に何かが引っかかる感触があった。「頑張ったのに、伝わらなかった」側の人間の話を聞くとき、いつもそうだった。

だが、最初からそこへ踏み込めば、真紀は何も受け取れない。まずは、目に見える傷からだ。斧が木を傷つけている。その先に、もう一つの構図がある。順序がある。

彼は二つの命式を並べて見つめ、小さく息を吐いた。

母親──森川真紀。日干は庚。金の陽。鋼鉄だ。硬く、強く、曲がらない。正義を信じ、秩序を守る。禄存星を二つ、司禄星を一つ持ち、奉仕と蓄積の本質を内に秘めている。

娘──森川陽菜。日干は甲。木の陽。大木だ。まっすぐに天を目指して伸びようとする、圧倒的な生命力。そして──巡は星の配置に目を走らせた。中に龍高星。東に貫索星。北と西に車騎星が二つ。

龍高星が中にある。冒険と探求の星。型に収まらない知性。そして車騎星が二つ——双車騎。行動力と闘争心の刃が、北と西に一本ずつ。

巡は、自分の手の甲を見た。自分も車騎星を二つ持っている。双車騎——黙っていられない衝動の星。

金剋木──。

金が木を剋する。鋼鉄の斧が、大木を切り倒す関係。

母の庚金が、娘の甲木を、抑えつけている。そしてその奥で、母自身の土が重なっている。正しさの刃と、愛の堤防。その二つが、同じ方向を向いている。

巡の胸に、古い痛みが走った。


八歳の巡は、泣いていた。

夏休みで、京都の祖母の家に来ていた。さくらの家の前の坂道。迎えに出てくれた祖母の顔を見た途端、ずっと堪えていたものが溢れた。

「巡ちゃん、どないしたんや」

さくらが、小柄な体に柔らかい笑顔を向ける。エプロンの端で手を拭きながら、孫の顔を覗き込む。

「……学校が、つまらない。お父さんがお医者さんだからって、お金持ちの息子って言われるの。友達も、なんか、気を使うし。先生も、同じことばっかり言うし」

巡は袖で涙を拭った。

さくらは何も言わずに、巡の手を取って歩き始めた。二人は静かに、家までの坂を上った。途中、桜の木が一本、斜面に立っていた。

さくらが立ち止まった。

「巡ちゃん。この木、見てみ」

巡は見上げた。大きな桜の木だった。幹は太く、枝は四方八方に伸びている。

「この木はな、まっすぐ上に伸びたかったんやろなぁ。でも、隣の家の塀があるやろ。せやから、こっちの方に曲がって伸びとる。窮屈そうやな」

巡は頷いた。

「でもな、見てみ。曲がった先で、ちゃんと空に向かって枝を広げとるやろ。この木は、箱に入れられへんかったんや。でも、箱から出る方法を、ちゃんと見つけた」

さくらは巡の頭をそっと撫でた。

「人の中にはな、龍みたいなところがある。箱の中には、どうしても入りきらんところや」

「龍?」

「そや。冒険と探求の力や。好奇心が強くて、型にはまらん知性を持っとる。学校という箱に入りきらんのは、お前が壊れてるからやない。お前の中に、箱より大きい場所があるからや」

幼い巡の目が、少しだけ輝いた。

「でもな、巡ちゃん」

さくらの声が、少しだけ真剣になった。

「龍は空を飛ぶ前に、まず根を張らなあかん。根のない龍は、ただの風に飛ばされる凧や。どこへ飛んでいくか、自分でも分からへんようになる」

「根って?」

「自分の中にある、動かんもの。信じるもの。それが根や。根があれば、どんな風が吹いても、龍は自分の行きたい方へ飛べる。根がなければ、ただ吹かれるだけや」

さくらは微笑んだ。

「せやから、今は根を張る時間やと思い。学校がつまらんでもええ。でも、何か一つ、自分だけの根っこを見つけなさい」

巡はその時、祖母の言葉の全部は理解できなかった。でも、涙は止まっていた。代わりに、胸の中に、何か温かいものが灯った気がした。


巡は、目の前の少女を見た。

十六歳の森川陽菜。龍高星と双車騎を備え、この小さなからだの中に、途方もない力を抱えている。三重の金剋木──日干、年干、北の星。母と同じ庚金の刻印が、命式の奥にまで届いている。

それなのに、天中殺は午未。火と土が欠け、感情を表現する火も、地盤を築く土も足りない。行き場を失った巨大なエネルギーを、内側で必死に鞘へ収めている。

学校に行かないのは、壊れたからではない。箱が小さすぎるのだ。

巡はゆっくりと口を開いた。

「お母さん」

真紀が背筋を伸ばした。

「あなたの日干は庚です。金の中でも、鋼鉄の金。強く、正しく、曲がらない。正義感が強く、秩序を大切にされる方です」

真紀は小さく頷いた。当たっている、と顔が語っていた。

「そして、陽菜さんの日干は甲。木の中でも、大木の木。まっすぐに天を目指して伸びようとする、強い生命力を持った方です」

巡は二つの命式を並べた。

「五行には、相生と相剋の関係があります。お母さんの金と、陽菜さんの木。この二つは──金剋木。鋼鉄が木を切る関係です」

真紀の顔色が変わった。

「つまり、お母さんの強さが──愛情から来ているのは分かっています。庚金の方は、間違ったことが許せない。甘えも許したくない。正しい道を切り開こうとする。それは、あなたの美点です」

「でも──」真紀が口を開きかけた。

「でも、鋼鉄が木を押さえつければ、木は傷つきます。斧で幹を叩けば、木は折れます。お母さんの正しさが、知らず知らずのうちに、斧になってしまっている可能性があるのです」

真紀が息を呑んだ。

巡は、もう一度陽菜の命式を見た。中央に龍高星。北と西に車騎星が二つ。この少女は、二つの刃を持っている。

「それに──陽菜さんは、盆栽にはなれません。普通の木なら、剪定して形を整えることができます。でも、この子の根元には川が流れている。誰にも止められない、激しい川が。木を整えるための刃では、川の流れまでは止められません。止めているのは、別のものです」

陽菜のフードの中で、何かが動いた気がした。スマートフォンの画面が、少しだけ傾いた。

巡は真紀から視線を外さずに、静かに言った。

「陽菜さんのそのスマートフォン、何をしているんですか」

真紀が口を開きかけた。「いつもこうで、本当に——」

「お母さんではなく、陽菜さんに聞きました」

真紀が口を閉じた。

陽菜の指が止まった。

「……別に」

「ゲームですか」

間があった。

「……ちがう」

反射的だった。陽菜自身も、少し固まった。

巡は急かさなかった。ただ、次の言葉を静かに置いた。

「何かを、作っていますか」

長い間があった。

「……アプリ」

真紀が眉を動かした。「アプリ?」

巡は何も言わなかった。陽菜の次を待った。

「……作ってる」

真紀の顔に、困惑が浮かんだ。

「携帯で?」

一言だった。責めているわけではなかった。確認しているだけの、その一言。

「スマホでアプリなんて、作れるんですか。普通はパソコンでやるものじゃないですか」

陽菜のフードの中で、何かが固まった。

また「別に」に戻ろうとした。でも今日は——戻れなかった。

「お母さん」

真紀が、ぴたりと止まった。

陽菜がこの声で自分の名前を呼んだのは、いつぶりだろう。真紀は一瞬、そこに引っかかった。

「パソコン、ほしいって言ったよね」

「……それは」

「コードの勉強がしたいって言った。プログラミングをやりたいって」

「でも、あの時は——」

「YouTubeしか見ないだろうって言った」

真紀が言葉に詰まった。

「どうせゲームかYouTubeだろうって。そう言って、終わりだった」

陽菜の声に、震えはなかった。震えるより深い場所から出てくる言葉だった。怒鳴ってもいない。ただ、事実だけを言っていた。それが、鋼鉄に刺さった。

「だから、スマホで調べた。全部。お金がかかるものは全部無料のやつを探した。AIの使い方も、英語のドキュメントの読み方も。スマホで全部」

巡は何も言わなかった。

「それで——作ってる」

一拍の間。

「不登校の子が、学校に行かなくても勉強できるアプリ。自分みたいな子が、自分のペースで進めるやつ」

真紀は、動かなかった。

何か言おうとした。口が、少しだけ開いた。でも言葉が来なかった。

——パソコン。

あの時、陽菜が何度か言っていた。真紀は「また言ってる」と思っていた。プログラミング、という言葉が出ていたかどうか——出ていたかもしれない。でも聞いていなかった。聞く前に、もう答えが見えていた気がしていた。

——YouTubeしか見ないだろう。

そう思って、話を聞く前から決めつけてしまった。陽菜がそれ以上何も言わなくなったから、納得したのだと思っていた。

巡は、机の上の命式を一度だけ見た。

中に龍高星。北と西に双車騎。

——止まれない星だ。二つの刃を持っている。学校がなければ、別の道で。刃は、鞘に収めても錆びない。この子は、誰に教わるでもなく、一人で刃を研いでいた。

巡は、静かに真紀の方を向いた。

「お母さん」

真紀が顔を上げた。目が赤かった。

「あなたは、間違っていません」

真紀の唇が、かすかに震えた。

「……でも私は、この子の話を聞いていなかった」

「聞こうとしていたはずです。だから今日、ここに来た」

「それは——」真紀が言葉を探した。「それは、もう限界だったからです。どうしていいか分からなくて。……先生、私、この子が小さい頃から、ずっと正しくあろうとしてきたんです」

巡は何も言わなかった。

「私の母も、厳しい人でした。勉強しなさい、ちゃんとしなさい、人に笑われるようなことをするな。そればかり言われて育ちました。でもそのおかげで、今の仕事がある。自分で生きていける。だから——」

真紀が一度、目を閉じた。

「だから、同じようにしてあげれば、この子も強くなれると思っていた。愛情からでした。本当に。でも——」

声が、途切れた。

「この子に、学校という箱の中に、ちゃんと入り続けなさいと言い続けた。パソコンをほしいと言ったとき、またゲームか動画だろうと決めつけた。……私が正しいと思っていたことが、全部この子を——」

真紀が口を押さえた。鋼鉄が、音もなくひびを入れていく音がした。

「お母さん」

巡は、ゆっくりと言った。

「あなたが受け取ったものを、渡そうとした。それは愛情です。ただ——あなたが受け取った箱は、あなたには合っていた。でも、陽菜さんの大きさには、合わなかった。もちろん、箱の大きさに正しいも間違いもありません。人には人の箱の大きさがある」

真紀が、陽菜を見た。

陽菜は、うつむいていた。フードは外れたままだった。

「正しくあろうとすることは、間違いではありません。ただ、正しさの形は一つではない。尽くすことだけが愛ではありません。陽菜さんは今、自分だけの正しさを、一人で作っています。誰に教わるでもなく」

真紀の目に、涙が浮かんでいた。唇を強く結んで、堪えていた。堤防は、容易には崩せない。でも今日、初めて水門に手がかかった。

「庚寅という日干は、開拓の刃と呼ばれます。正しいと信じた道を切り開く力。あなたが今日ここに来たのも、その力です」

巡は、命式を指差した。

「ここまでお話ししたのは、金と木の関係です。お母さんの正しさが、陽菜さんの伸び方を傷つけてしまうことがある。けれど、今日いちばん大事なのは、そこだけではありません」

巡は、命式の中央と西、そして北を順に示した。

「お母さんの命式の中央には禄存星があります。西にも禄存星。北には司禄星。奉仕と、蓄積の星です。愛する人に与えたい、尽くしたい。正しい形を積み上げて守りたい。その思いは本物です。お母さんの愛情は、決して足りないわけではありません。むしろ──多すぎるのです」

真紀の唇が、かすかに震えた。

「ただ──禄存星も司禄星も土の星。五行で、土は水をせき止めます。お母さんの南には龍高星がある。本来、子供の自由を信じる星です。でも中央の禄存星が堤防になって、その自由を堰き止めてしまっている。陽菜さんを切ってしまったのは正しさです。でも、陽菜さんを箱の中に留めてしまったのは、愛です。愛がないからではなく、愛が多すぎるから。だから届かなかった」

巡は、陽菜の方へ視線を移した。

「水門を開ける方法は、一つだけです。陽菜さんが話すのを、最後まで待つこと。正しいかどうか、判断するより前に。与えることだけが愛ではありません──見守ることも、愛です。今日、あなたが聞いたことを──もう一度、家でも」

しばらく、誰も何も言わなかった。

陽菜が、かすかに顔を上げた。真紀を見た。真紀も、陽菜を見た。

二人の間に、言葉はなかった。でも、何かが少しだけ、動いた気がした。


見送った後、巡は二階に戻った。

窓の外はもう薄暗かった。机の上には、二人の命式と、祖母のノート。

巡は祖母のノートを再び手に取った。めくる手が、ある頁で止まった。

「星の組み合わせ」と題された頁。さくらの崩し字で、いくつかの星の組について走り書きが並んでいる。その中に──巡の目が、一行で止まった。

「龍高と双車騎が重なる時、その人は二つの刃を持つ龍になる。一本なら剣。二本なら鋏。切るだけじゃない、形を作れる。その刃を守るために使うか、自分を傷つけるために使うか──それは本人が『守るもの』を見つけたかどうかで決まる」

巡は、その言葉を何度も読み返した。

二つの刃を持つ龍。一本なら剣、二本なら鋏。切るだけではなく、形を作れる。その刃を守るために使うか、自分を傷つけるために使うか。

陽菜は、すでに刃を「創る」方向に向けていた。

誰にも頼らず、誰にも言わずに。スマートフォン一台で、アプリを作っていた。孤独の底で、自分だけの刃を研いでいた。巡が「見つけるはずだ」と思っていたものを、あの少女はとっくに見つけていた。

さくらはこの組み合わせを知っていた。巡自身も北と南に車騎星を持つ。「黙っていられない」──同じ刃を持つ者として、祖母の言葉が胸に沈んだ。

巡は、さきほどの診断を振り返った。

手帳を開いた。「村田健一──未了」の文字を見て、一瞬だけ目を伏せた。

今日は、問わなかった。

万年筆を置いた。


時計が午後六時を指した頃、スマートフォンが音もなく光った。

着信。

巡の指が、画面の上で止まった。

通話ボタンに触れた。

「……九条です」

少し間があった。

「……村田です」

声で、すぐ分かった。三週間前、「二度と来ねえ」と言って階段を降りていった声。

「村田さん」

「……邪魔でしたか」

「いいえ」

また間があった。

村田が何かを言おうとして、何度も止めている気配があった。怒鳴って階段を降りていった男の声ではなかった。まだ硬い。だが、その硬さの奥で、何かが削れている。

「……あの」

「もう一度、診てもらえますか」

巡は、何も言わなかった。

「あの時怒鳴って出ていったのは、分かってます。バツが悪いのも分かってる。でも——先生が言いかけて止めたことが、ずっと抜けないんです」

巡は手帳を見た。「村田健一──未了」の文字。

「……いつでも」

「え」

「いつでも来てください」

また間があった。

「……そうですか」

それだけだった。通話が切れた。

巡はスマートフォンを机に置いた。

窓の外、薄暗い空に、星が一つ出ていた。

手帳の「村田健一──未了」の文字を、巡はしばらく見つめた。