番外編 陽光と炭火

Summary

九条巡の運命診断所

番外編 陽光と炭火

五月の午後は、明るさと温度が少しだけずれている。

窓から差し込む光は白く、机の端まで届いていた。けれど、部屋の空気はまだ春の冷たさを残している。光だけを見れば暖かい。手を置けば、木の机はひんやりしていた。

巡は、祖母さくらのノートを開いていた。

十大主星の章。火性の星が並ぶページに、祖母は二つの絵を描いていた。

鳳閣星の横には、丸い太陽。

調舒星の横には、小さな炭火。

どちらも火だった。

どちらも、誰かに熱を渡す星だった。

けれど、その熱の渡り方は違う。

太陽は、そこにいる全員を照らす。歩いている人も、眠っている人も、こちらを見ていない人も、同じように照らす。

炭火は、近づいた人だけを温める。離れている人には、ほとんど見えない。けれど、手をかざした人には、長く残る熱がある。

祖母の字が、ページの端に小さく残っていた。

——陽の火は、みんなのものになりやすい。陰の火は、ひとりのものになりやすい。どちらも、火や。

巡はその一文を、しばらく眺めていた。

一階の養心堂から、炭で煎じる薬湯の匂いが上がってきていた。今どき炭火を使う必要はないのに、ミチさんは時々、古い七輪を出す。急いで温めるものと、ゆっくり温めるものは違うのだと、以前、短く言っていた。

予約は午後三時。

名前は、朝倉ひなた。三十二歳。職業欄には「ラジオパーソナリティ」と書かれていた。

相談内容は、短かった。

「友人を傷つけたのかもしれません」

階段を上がる足音がした。

軽い足音だった。けれど、軽すぎる。足が先に上がって、心が一段遅れてついてくる人の足音だった。

ノックは、明るかった。

ノックにも明るい暗いがあるのだと、巡は最近よく思う。

「どうぞ」

扉が開いた。

入ってきた女性は、薄い黄色のカーディガンを羽織っていた。髪は耳の下で短く切られ、片側だけ小さな金のピンで留めている。顔立ちはよく動いた。目も、口元も、相手が何か言う前に、先に受け取ろうとしている。

「朝倉ひなたです。今日は、よろしくお願いします」

声が、部屋の奥まできれいに届いた。

大きい声ではない。届く声だった。マイクに向かう人の声だと、巡は思った。距離を測る前に、声が相手の耳まで行く。

「九条巡です。どうぞ、おかけください」

ひなたは椅子に座った。鞄を膝の上に置き、すぐにまた持ち上げる。置き方が決まらない。中から薄い封筒が何通か覗いていた。封筒の角は、丁寧に揃えられている。

「すみません、こういう場所、初めてで」

「緊張されていますか」

「してます。でも、たぶん、してないように見えますよね」

ひなたは笑った。

笑い方が上手だった。相手が安心する幅で、少しだけ歯を見せる。ラジオでは顔は見えないはずなのに、その笑いには、見られることに慣れた人の形があった。

「今日は、どのようなご相談でしょう」

巡が問うと、ひなたはすぐには答えなかった。

答えられないのではなく、どこから話せば相手にいちばん伝わるかを、瞬時に探している沈黙だった。

「私、地域FMで番組を持っています」

「はい」

「月曜から木曜の夕方、二時間。音楽をかけて、街のニュースを読んで、リスナーさんのメッセージを紹介して。そんなに大きな番組ではありません。でも、八年続いています」

「八年」

「はい。最初は、誰も聞いていないと思っていました。商店街のお知らせを読んで、天気を読んで、曲をかけて。反応もほとんどなくて」

ひなたの声が、少しだけ柔らかくなった。

「でも、三ヶ月くらい経った時、初めて手紙が来たんです。『夕飯を作りながら聞いています。あなたの声があると、台所が少し明るいです』って」

ひなたは、鞄から一通の封筒を出した。

古い封筒だった。宛名の文字は少し滲んでいる。何度も開いて、何度も閉じた跡があった。

「それから、少しずつメッセージが来るようになりました。受験生の子とか、介護をしている人とか、工場の夜勤明けの人とか。私の番組は、誰かの人生を変えるような番組ではありません。ただ、いつもの時間に、いつもの声がある。それだけです」

「それだけ、ではないと思います」

ひなたは、少し驚いたように顔を上げた。

「そう言ってもらえると、嬉しいです」

声は明るかった。けれど、その明るさの奥に、すぐに次の話へ進もうとする焦りがあった。

「友人のこと、ですね」

巡が促すと、ひなたは小さく頷いた。

「火野ともえという友人がいます。高校の同級生です。今は、小さな出版社で校正の仕事をしています。あと、個人で同人誌を作っています。小説じゃなくて、誰かの手紙とか、古い街の記録とか、そういうものを集めて、一冊ずつ作る人です」

「一冊ずつ」

「はい。大量には作りません。二十部とか、三十部とか。紙を選んで、糸で綴じて、表紙を貼って。私には、気が遠くなるような作業です」

ともえ、と口にした時だけ、ひなたの声の温度が変わった。

明るさが増したのではない。声の表面から、少しだけ余計な反射が消えた。

「ともえは、私の番組を、初回からずっと聞いてくれていました」

「八年間」

「はい。たぶん、全部ではないと思います。でも、毎週一度は必ず、短いメッセージをくれました。番組宛てじゃなくて、私個人に。今日の三曲目、よかった。最初のニュース、少し急いでいた。あのリスナーさんの手紙を読んだ後、声が硬くなっていた。そういうことを、二行とか三行で」

ひなたは、別の封筒を取り出した。

そこには、便箋が何枚も入っていた。手紙ではなく、短いメモの束だった。紙の大きさも色も、ばらばらだった。喫茶店の伝票の裏、古いチケットの半券、原稿用紙の切れ端。

「ともえは、みんなの前で褒めてくれるタイプではありません。イベントにも、あまり来ません。来ても、後ろの方で見て、すぐ帰ってしまう」

「はい」

「でも、私はそれで十分でした。ともえが聞いてくれているなら、今日も大丈夫だと思えた」

ひなたは、そこで言葉を止めた。

部屋の明るさが、少しだけ傾いた。窓の外を薄い雲が通ったのだろう。机の上の光が、ゆっくり弱くなる。

「先月、番組の八周年イベントをやりました」

「はい」

「リスナーさんが百二十人くらい来てくれて。商店街のホールを借りて、公開収録をして、ゲストも呼んで。私、すごく楽しかったんです」

ひなたは笑った。

その笑いは、今度は本物に近かった。

「舞台の上から見ると、いつも声だけで想像していた人たちが、そこにいて。あの受験生の子が大学生になっていたり、介護をしていた人が、お母さんの遺影を小さく持って来てくれていたり。私は、ちゃんと届いていたんだと思いました」

「はい」

「でも、イベントの後の打ち上げで、私、ともえに言ってしまったんです」

ひなたの指が、封筒の端を強く押さえた。

「『ともえも、もっと前に出てくれたらよかったのに』って」

巡は、黙って続きを待った。

「スタッフ紹介の時も、ともえの名前を呼ぼうとしたんです。ずっと番組を聞いてくれている大事な友人です、って。でも、ともえは首を振って、舞台袖に下がってしまいました」

「それで」

「私、少し腹が立っていたんだと思います」

ひなたは、正直に言った。

「みんなが祝ってくれている場でした。八年分のありがとうが、目の前に集まっていて。私はその中に、ともえにもいてほしかった。なのに、ともえは、いつものように後ろに下がる」

「はい」

「だから、打ち上げで言ってしまいました。『ともえはいつもそうだよね。私のことを大事だって言うわりに、みんなの前では何もしてくれない』って」

その言葉は、部屋の中でしばらく動かなかった。

ひなたは、唇を結んだ。

「ともえは、少し黙ってから、言いました」

ひなたの声が、初めて少し低くなった。

「『私は、ひなたのリスナーじゃない』って」

巡は、その言葉を頭の中で繰り返した。

私は、ひなたのリスナーじゃない。

「それだけです。それだけ言って、帰ってしまいました」

「その後は」

「連絡は、返ってきません。番組宛てにも、私個人にも」

ひなたは、鞄から二枚のカードを出した。

「自分のことを相談しに来たはずなのに、ともえの生年月日も持ってきてしまいました」

カードは、きれいに書かれていた。

朝倉ひなた。

火野ともえ。

ともえのカードの方が、少し古い紙だった。たぶん、どこかの便箋を切って使ったものだろう。端が手で切られていて、まっすぐではなかった。

「お二人の命式を、見てもいいですか」

「お願いします」

巡は、万年筆を取った。

十干。十二支。蔵干。星。

紙の上に、二人の器が静かに現れていく。

朝倉ひなた。

中心に鳳閣星。

火野ともえ。

中心に調舒星。

どちらも、火性の伝達本能から生まれる星だった。

どちらも、何かを表に出す。声にする。形にする。相手へ渡す。

ただ、出し方が違う。

見えやすい対比だった。

見えやすい対比ほど、言葉を急ぐと、人を雑に分けてしまう。

巡は、しばらく紙を見ていた。

祖母の声が、記憶の底から浮かんできた。


八歳の巡は、京都の家の庭で、夏の夕方を待っていた。

昼間、祖母さくらは、梅干しを竹ざるに広げていた。庭いっぱいに赤い梅が並び、強い日差しを受けて、少しずつ皺を寄せていく。

「お日さんは、えらいな」

祖母が言った。

「えらい?」

「この梅も、庭の草も、屋根も、通りの犬も、みんな照らしてくれる」

巡は、梅干しのざるを見た。

「でも、お日さんは、僕のこと見てない」

「そやな」

さくらは笑った。

「お日さんは、巡ちゃんだけを見てへん。みんなを見てる。せやけど、巡ちゃんにも当たってる」

「変なの」

「変やな」

その夜、祖母は七輪に炭を入れた。

夏なのに、なぜ火を起こすのかと巡が聞くと、さくらは「干した梅を少しだけ炙る」と言った。炭はなかなか火がつかなかった。ついた後も、昼間の太陽のように明るくはならなかった。

ただ、近づくと、手のひらの奥まで熱が来た。

「こっちは、みんなを照らさへんの?」

「照らさへんな」

「じゃあ、弱い火?」

「弱いんと違う」

さくらは、火箸で炭を一つ動かした。

「この火は、近くに来た人を温める火や。遠くの人には、分からへん。けど、いっぺん手をかざした人は、なかなか忘れへん」

「お日さんと、炭、どっちがえらいの」

巡が聞くと、祖母は少しだけ真顔になった。

「それを比べたら、あかん」

「なんで」

「昼の庭を乾かすには、お日さんがいる。夜に冷えた手を温めるには、炭がいる。お日さんに、ひとりだけを温めろと言うたら、お日さんは苦しむ。炭に、町中を照らせと言うたら、炭は灰になる」

巡は、炭火に手をかざした。

昼間に浴びた太陽の熱は、もう体から消えていた。けれど、炭火の熱は、手のひらの小さな範囲に、深く入ってきた。

「巡ちゃん、覚えとき」

さくらは言った。

「みんなを照らす人は、ときどき、自分だけを見てくれる目を欲しがる。ひとりを温める人は、ときどき、みんなを照らせない自分を責める。どっちも、自分の火の使い方を間違えた時に、さみしくなるんや」


巡は目を開けた。

目の前には、ひなたが座っていた。封筒の束を、両手で押さえている。

「朝倉さん」

「はい」

「朝倉さんと火野さんは、同じ火の星を持っています」

ひなたの目が、少しだけ動いた。

「同じ、ですか」

「はい。どちらも、誰かに何かを届ける星です。声、文章、表現、温度。自分の中にあるものを、外へ渡す力です」

巡は、紙の上に二つの言葉を書いた。

陽光。

炭火。

「朝倉さんの中心にある鳳閣星は、陽光に近い火です」

「陽光」

「はい。多くの人に、同じ温度で届く火です。ラジオの声は、まさにそうですね。誰か一人を選んで話しているようで、実際には、台所にも、車の中にも、工場にも、病室にも、同じ声が届く」

ひなたは、黙って聞いていた。

「それは、浅いということではありません。広い、ということです。広く届く火には、広く届く火の役割があります」

ひなたの指が、封筒から少し離れた。

「ともえさんの調舒星は、炭火に近い火です」

「炭火」

「はい。近づいた人だけを、深く温める火です。大勢の前で名前を呼ばれることより、番組が終わった後に、二行だけ本当のことを書く。その方が自然にできる」

ひなたは、目を伏せた。

「そうです。ともえは、いつもそうでした」

「火野さんが朝倉さんの番組を大事にしていなかったわけではないと思います」

「でも」

「はい」

「八周年の場に、いてほしかったんです。みんなの前で、私の大事な人だって言いたかった」

「そうですね」

「それは、間違いですか」

「間違いではありません」

巡は、すぐに言った。

「朝倉さんの鳳閣星は、喜びをみんなの場所に置きたい星です。自分が大事にしているものを、明るい場所に出して、みんなで囲みたい。それは自然なことです」

ひなたは、少しだけ息を吐いた。

「でも、火野さんにとって、その明るい場所は、たぶん熱すぎた」

ひなたの顔が、動かなくなった。

「熱すぎた」

「はい。炭火は、暗い場所でこそ熱が分かります。強い照明の下に出されると、火は見えにくくなる。火野さんにとって、朝倉さんとの関係は、みんなに紹介されるためのものではなく、番組が終わった後に二行だけ送るような、暗い場所の熱だったのだと思います」

「私は、それを」

ひなたは、言葉を探した。

「見えないから、ないと思ったんですね」

「ない、というより」

巡は少しだけ首を振った。

「みんなに見えないものは、朝倉さん自身にも見えなくなる瞬間があったのだと思います」

ひなたの目に、痛みが走った。

「それ、あります」

声が小さくなった。

「番組をしていると、反応が全部、数字になるんです。メールの数。SNSの投稿数。イベントの申込数。再生数。スポンサーさんも見るし、局も見る。多く届いたことは、分かりやすい」

「はい」

「でも、ともえの二行は、誰にも見えない。誰にも見えないのに、私にはいちばん必要だった」

ひなたは、封筒の束を見つめた。

「それなのに私は、誰にも見えないことに、だんだん不安になっていたのかもしれません」

「見られている人は、見られていない時間が怖くなることがあります」

巡は言った。

「鳳閣星の人は、自然体で人に届く力があります。力まなくても、声や仕草や言葉が、周囲を明るくする。ただ、その力が仕事になると、いつの間にか『届いている証拠』を探し続けるようになる」

「証拠」

「はい。拍手、感想、数字、客席の顔。届いていると分かれば安心する。けれど、分からない場所では、自分の火が消えたように感じる」

ひなたは、長い息を吐いた。

「イベントの後、すごく明るかったんです。ホールも、写真も、メッセージも。全部、明るかった」

「はい」

「でも、家に帰ったら、真っ暗でした」

その言葉だけ、ひなたの声から、ラジオの響きが消えた。

「部屋に帰って、靴を脱いで、照明をつける前に、急に怖くなりました。今日あれだけの人が来てくれたのに、今ここには誰もいないんだと思って」

巡は、黙って聞いていた。

「その時、ともえからメッセージが来ていないことに気づいたんです。いつもなら、『お疲れ』とか、『二曲目、少し泣きそうだったね』とか、そういうのが来る。でも、その日は来ていませんでした」

「はい」

「私は、怒っていたんじゃなくて、怖かったんですね」

「そうかもしれません」

「あれだけの人に見られた後で、いちばん見てほしい人に見られていない気がした」

ひなたは、目を閉じた。

「最悪ですね」

「最悪、というほどではありません」

「でも、傷つけました」

「はい。それは、たぶん傷つけました」

巡は、そこは濁さなかった。

慰めるために事実を薄めると、相談者は自分を見失う。傷つけた可能性があるなら、そこは見なければならない。

「火野さんの『私は、ひなたのリスナーじゃない』という言葉は、怒りだけではないと思います」

「怒りだけではない」

「はい。たぶん、境界です」

「境界」

「リスナーは、朝倉ひなたさんの声を受け取る人です。番組の中の朝倉さんを、遠くから大事にする人です」

巡は、ともえのカードを指した。

「でも火野さんは、番組の外の朝倉さんを、近くで見てきた人です。明るい声の後の疲れも、笑いすぎた後の沈黙も、選曲を間違えた日の落ち込みも、たぶん知っている」

ひなたは、何も言わなかった。

「だから、『リスナーじゃない』と言ったのだと思います。私は、みんなと同じ距離に置かれたくない。みんなの前で紹介される名前ではなく、あなたがマイクを切った後に戻る場所でありたかった。そういう意味が、少し入っている気がします」

ひなたの目に、涙が浮かんだ。

ただ、こぼれなかった。

「ともえは、いつも、番組が終わった後の私にだけ、連絡をくれました」

「はい」

「本番前でも、イベント中でもなくて、終わった後」

「はい」

「私が、明るくなくてもいい時間に」

巡は、頷いた。

「炭火は、光が消えた後に残る火です」

ひなたは、その言葉を聞いて、初めて封筒の束から手を離した。

「九条さん」

「はい」

「一人を大事にすることと、たくさんの人を大事にすることは、どちらかを選ばなきゃいけないんでしょうか」

巡は、その問いをしばらく置いた。

窓の外で、子どもの声がした。すぐに遠ざかる。路地は、音を長く残さない。通ったものだけが、短く部屋に影を落とす。

「選ぶ問いではないと思います」

巡は言った。

「ただ、同じ器で扱うと、こぼれます」

「同じ器」

「はい。百二十人に向けるありがとうと、一人に向けるありがとうは、同じ形では渡せません。百二十人へのありがとうは、舞台の上で言える。拍手の中で言える。けれど、一人へのありがとうは、舞台の上で言うと、少し形が変わってしまうことがあります」

ひなたは、黙っていた。

「朝倉さんは、火野さんを大事にしていたから、みんなの前で名前を呼びたかった」

「はい」

「火野さんは、朝倉さんを大事にしていたから、みんなの前ではなく、終わった後の二行で残りたかった」

ひなたの喉が、小さく動いた。

「どちらも、愛情だったんですね」

「そう思います」

「でも、形が違った」

「はい」

「違う形の愛情を、自分の形に直そうとしたから、傷つけた」

巡は、ゆっくり頷いた。

「そうかもしれません」

ひなたは、しばらく何も言わなかった。

沈黙の間、彼女の顔から少しずつ表情が落ちていった。ラジオの声を持つ人が、声のない場所に戻っていくようだった。

「謝りたいです」

「はい」

「でも、どう謝ればいいのか、分かりません。『みんなの前に出そうとしてごめん』だけだと、何か違う気がします」

「そうですね」

巡は、紙の端に小さく線を引いた。

「火野さんに、番組宛てではなく、朝倉さん個人として、短い手紙を書いてみませんか」

「手紙」

「はい。メールでも構いませんが、できれば手紙がいいと思います。火野さんは、紙に熱を残す人のようなので」

ひなたは、封筒の束を見た。

「何を書けば」

「三つです」

巡は、紙に数字を書いた。

「一つ目。あの場で名前を呼ぼうとしたのは、あなたを大事に思っていたからだと書く」

「はい」

「二つ目。でも、その大事に思う形を、あなたに確認せず、みんなの前に出そうとした。それは私の誤りだったと書く」

「はい」

「三つ目。あなたはリスナーではなく、マイクを切った後の私を見てくれていた人だった。そのことに、今さら気づいたと書く」

ひなたは、紙の上の三つを見ていた。

「許してほしい、とは書かない方がいいですか」

「書かない方がいいと思います」

「なぜ」

「許すかどうかは、火野さんの火だからです」

ひなたは、目を上げた。

「朝倉さんの陽光で、火野さんの炭を早く燃やそうとしない方がいい。炭火には、炭火の戻り方があります」

「待つ、ということですか」

「はい。ただし、何もしないで待つのではなく、必要な言葉だけ置いて待つ」

ひなたは、深く息を吸った。

「私、それが苦手です」

「そうでしょうね」

「沈黙が、怖いです」

「鳳閣星の人は、沈黙を埋めるのが上手です。だから、沈黙があると、自分が仕事をしていないように感じる」

「はい」

「でも、炭火の人にとって、沈黙は消えた時間ではありません。熱が内側に移っている時間です」

ひなたは、唇を結んだ。

「待ちます」

「ええ」

「返事が来なくても」

「はい」

「でも、番組で、何もなかったみたいに明るくするのは、少ししんどいです」

「しんどい時に、無理に明るくしなくてもいいと思います」

巡は言った。

ひなたは、少し驚いた。

「でも、リスナーさんが」

「朝倉さんの声が、いつもより少し静かな日があってもいいのではないでしょうか」

「それで、心配させたら」

「心配する人もいると思います」

「ですよね」

「でも、人を照らす火が、いつも同じ明るさでなければならないわけではありません」

巡は、窓の外へ目をやった。

「夕方の光は、昼の光より弱いです。でも、夕方にしか見えない色があります」

ひなたは、しばらくその言葉を聞いていた。

「番組の最後に、言ってもいいですか」

「何をですか」

「今日は少しだけ、静かな声でお別れします、って」

巡は、少し考えた。

「いいと思います。ただ、理由は言わなくていい」

「理由は、言わない」

「はい。みんなに向ける言葉に、一人の事情を混ぜない方がいい時があります」

ひなたは、ゆっくり頷いた。

「百二十人へのありがとうと、一人へのありがとうを、同じ器に入れない」

「はい」

ひなたは、初めて小さく笑った。

ラジオの笑いではなかった。誰にも見せる予定のない、少し不器用な笑いだった。

「九条さん」

「はい」

「ともえが戻ってこなかったら、どうすればいいですか」

巡は、すぐには答えなかった。

答えられない問いだった。

「戻ってこない可能性も、あります」

ひなたは、目を伏せた。

「はい」

「それでも、火野さんの二行が八年間、朝倉さんを温めてきたことは、消えません」

「消えない」

「はい。炭火は、消えた後も、灰の中に熱が残ることがあります。触ると、まだ少し温かい。関係が同じ形に戻らなくても、その熱がなかったことにはならない」

ひなたは、封筒を一通ずつ、鞄に戻した。

その手つきは、来た時より少し遅かった。急いで片づけるのではなく、一つずつ置き場所を確かめている。

「私、ずっと、たくさんの人に届くことが、正しいと思っていました」

「はい」

「ともえの二行も、いつか番組の中で紹介できるような、きれいな言葉にしたかったのかもしれません」

「はい」

「でも、ともえの言葉は、番組のためにあったんじゃない」

「そう思います」

「私のために、あった」

巡は、頷いた。

「そして、火野さん自身のためにも、あったのだと思います」

ひなたは、少しだけ目を見開いた。

「ともえ自身のため」

「はい。誰か一人にだけ本当のことを書くことが、火野さんの火の使い方だったのかもしれません。朝倉さんを温めていたようで、火野さん自身も、その火で自分を保っていた」

ひなたは、息を止めた。

「じゃあ、私がみんなの前に出そうとしたのは」

「火野さんの火の場所を、変えようとしたのかもしれません」

「……そうですね」

長い沈黙だった。

けれど今度は、ひなたはその沈黙を埋めなかった。

診断が終わる頃、窓の光はすっかり傾いていた。机の上には、陽光という字と、炭火という字が、同じ紙の上に並んでいた。

ひなたは立ち上がった。

「手紙、書いてみます」

「はい」

「短く、ですよね」

「火野さんの二行より、少し長いくらいで」

「それは、難しいです」

「難しいと思います」

ひなたは、今度は少しだけ声を出して笑った。

扉の前で、振り返った。

「九条さん」

「はい」

「私は、みんなを大事にすることを、やめなくていいんですよね」

「やめなくていいと思います」

「でも、一人を、みんなの中に混ぜなくてもいい」

「はい」

「分かりました」

ひなたは、深く頭を下げた。

階段を下りる足音は、来た時よりも少し重かった。けれど、それは悪い重さではなかった。自分の荷物を、自分の手で持ち直した人の重さだった。

彼女が出ていったあと、診断所には、紙と、少しだけ香水の匂いが残った。明るい柑橘の香りだった。だが、奥に木の苦味があった。

巡は、机の上の紙を見た。

陽光。

炭火。

祖母のノートを開き、火性の星のページに、一行を書き加えた。

「鳳閣は全員へ同じ熱を渡し、調舒は一人へ深い熱を残す。どちらも、愛を薄めているのではない。器が違うだけである」

インクが紙に沈むまで、巡は待った。

階下から、ミチさんの声がした。

「九条さん、火ぃ落とすよ」

七輪のことだろう。

「はい」

巡は返事をした。

窓辺に立つと、路地の向こうに夕日が細く残っていた。建物の影に切り取られた光は、昼間の太陽よりずっと弱い。それでも、通りの白い壁を、最後まで静かに照らしていた。

その下で、養心堂の七輪から細い煙が上がっている。

光と煙。

遠くまで届くものと、近くに残るもの。

どちらが本当の火なのか、という問いは、たぶん最初から間違っている。


一週間後。

診断所の机の上で、スマートフォンが短く震えた。

朝倉ひなたからのメッセージだった。

本文は、短かった。

「手紙を出しました。返事はまだありません。でも、昨日の番組の最後、初めて少し静かに終われました」

その下に、もう一行あった。

「リスナーさんから、『今日の声は夕方みたいでした』とメールが来ました」

巡は、その文面をしばらく見ていた。

返事を書こうとして、少し考え、短く打った。

「夕方の光も、届きます」

送信してから、巡はスマートフォンを伏せた。

窓の外では、また別の夕方が始まっていた。

その光は、誰か一人のものではなかった。

けれど、その光を受けている一人は、確かに、どこかにいる。


さらに三日後、ひなたから二通目のメッセージが届いた。

画像が一枚、添えられていた。

白い便箋の端を写した写真だった。本文はほとんど隠されている。見えているのは、最後の二行だけだった。

「変に気張らないで。

マイクを切った後の声も、私は知ってる」

巡は、その二行を、長く見ていた。

それは、拍手ではなかった。

公開された感想でもなかった。

百二十人へ向けられた言葉でもなかった。

ただ、一人の手のひらに、そっと置かれた炭火のような二行だった。

巡は、祖母のノートを閉じた。

部屋はもう薄暗かった。

けれど、不思議と寒くはなかった。

(了)