番外編 門と柱
Summary
九条巡の運命診断所
番外編 門と柱
夕方になる少し前、診断所の窓に、向かいの屋根の影が斜めにかかっていた。
五月の光は明るい。だが、長く机に向かっていると、明るさだけが先に部屋へ残り、温度はゆっくりと下がっていく。巡は窓を少しだけ開け、一階の養心堂から上がってくる生薬の匂いを入れた。
机の上には、祖母さくらのノートが開かれている。
十大主星の章。墨の色が少し褪せたページに、「石門」「貫索」という二つの名が並んでいた。
どちらも木性の星。
どちらも守る星。
だが、祖母はその横に、まったく違う絵を描いていた。
石門星の横には、門。
貫索星の横には、柱。
巡は、その二つの小さな絵を見ていた。門は人が通るためにあり、柱は家が倒れないためにある。どちらか一つだけでは、家は長く持たない。
予約は午後四時。
問い合わせの欄には、こう書かれていた。
「店を、このまま続けるべきか。弟と話ができなくなりました」
名前は、萩原梢。三十六歳。古書店店主。
足音が階段を上がってきた。
軽い足音だった。けれど、急いでいるわけではない。一段ごとに、誰かを置いていかないように歩く人の足音だった。最後の一段だけ、少し遅れた。
ノックは、控えめだった。
「どうぞ」
扉が開いた。
入ってきた女性は、薄い茶色の麻の上着を着ていた。髪は後ろでひとつに束ねている。肩から下げた布の鞄には、古い文庫本が二冊、角を覗かせていた。
「萩原梢です」
「九条巡です。お待ちしていました」
梢は頭を下げ、椅子に腰を下ろした。鞄を膝の上に置いたあと、その上に両手を重ねた。指には紙で切った細い傷がいくつもあった。古本屋の手だった。
「今日は、どのようなご相談でしょう」
巡が問うと、梢はすぐには答えなかった。
視線が、机の上をゆっくり移動した。万年筆。月暦。祖母のノート。窓辺の小さな鉢植え。最後に、巡の顔へ戻ってくる。
「店を、閉めた方がいいのかもしれないと思っています」
「古書店を」
「はい。祖父の代からの店です。神保町の外れに、小さく残っているだけの店で。今は私と弟でやっています」
「弟さんと」
「弟は、航といいます。三十三歳です」
梢はその名を口にした時だけ、少し硬くなった。
「仲が悪いわけでは、なかったんです。子どもの頃は、店の奥の棚の下に二人で潜って、売り物にならない本を読んでいました。祖父に怒られるまで、ずっと」
言葉の端に、懐かしさがあった。
「祖父が亡くなって、父が倒れて、母も数年前に亡くなって。気づいたら、店を残すかどうかを、私たち二人で決めることになっていました」
「それで、続けてこられた」
「はい。ただ、普通に続けるだけでは無理でした。お客さんも減っていましたし、家賃も上がりました。だから私は、読書会を始めました。棚の一角を小さなギャラリーにして、近くの学生さんや編集者さんに使ってもらって。夜は翻訳の勉強会を開いて、日曜は子どもの本を読む会をやって」
梢の声は、そのあたりで少しだけ早くなった。
「人が戻ってきたんです。昔のお客さんも、若い人も。店の前に自転車が並んで、夜に灯りがついて、誰かが本の話をしている。ああ、店が生き返ったと思いました」
「梢さんは、それが嬉しかった」
「嬉しかったです」
即答だった。
しかし、すぐに視線が落ちた。
「でも、弟は、あまり店に出なくなりました」
巡は黙って続きを待った。
「最初は、裏で在庫を整理しているだけだと思っていました。航は昔から、黙って作業する方が得意なので。値札を貼ったり、背表紙を直したり、古い全集の欠けを探したり。そういうことは、私よりずっと丁寧です」
「はい」
「でも、読書会の人たちが増えるほど、弟は奥に引っ込むようになりました。新しく来た人に話しかけられると、短く返事だけして、すぐ棚の影に行ってしまう。私が『もう少し愛想よくして』と言うと、黙ってしまう」
梢は唇を結んだ。
「先週、とうとう言われました」
「何と」
「ここは、もう本屋じゃない」
その言葉だけ、部屋の中で少し重くなった。
「航は、怒っていました。読書会も、展示も、勉強会も、全部、店を守るためにやっているのに。私が人を集めなかったら、とっくに閉まっていたのに。それなのに、弟は、私が店を壊しているみたいに言うんです」
梢の目に、怒りが灯った。だが、その怒りはすぐに疲れへ変わった。
「でも、言い返せませんでした」
「なぜですか」
「少しだけ、分かってしまったからです」
梢は鞄の中から、古い紙片を一枚取り出した。店のしおりだった。活版で「萩原書房」と刷られている。角は丸く擦れていた。
「祖父の字です。昔、店の袋に入れていたものです。『本は、急がない人のためにあります』って」
巡は、その紙片を見た。
黒い文字は、少し滲んでいた。だが、滲んだ分だけ、紙に深く沈んでいるようにも見えた。
「今の店は、ずっと賑やかです。悪いことではないと思います。でも、昔みたいに、誰も話しかけずに二時間棚の前に立っていられる空気は、薄くなりました。航が守りたかったのは、たぶん、そっちなんです」
「梢さんは、何を知りたいのでしょう」
巡がそう尋ねると、梢はしばらく黙った。
「弟が、ただ頑固なのか」
「はい」
「それとも、私が、ただ人に合わせすぎているのか」
巡は、机の引き出しから白いカードを二枚出した。
「お二人の生年月日を教えていただけますか」
梢は自分の分を迷わず書いた。弟の分を書く時だけ、少しだけ手が止まった。
「弟のも、覚えているんです。小さい頃、誕生日が来るたびに、祖父がその年の文庫を一冊ずつくれたので」
巡は二枚のカードを受け取り、手帳を開いた。
十干、十二支、蔵干。星が、静かに紙の上へ降りてくる。
萩原梢。
中心に、石門星。
萩原航。
中心に、貫索星。
巡は、二つの星を見た。
見えやすい対比だった。だが、見えやすいものほど、言葉を急ぐと人を傷つける。
石門星。人と人を結ぶ星。輪を作り、門を開き、別々のものを一つの場所へ迎え入れる。
貫索星。自分の筋を守る星。柱を立て、境界を引き、簡単には動かない。
どちらも、木性。
どちらも、守る星。
巡は、祖母のノートの端に描かれていた門と柱を思い出した。
十歳の巡は、京都の古い家の縁側で、木片を並べていた。
祖母さくらの家には、古い建具の端材がいくつも残っていた。障子の桟、欄間の欠け、柱を削った時に出た細長い木片。巡はそれらを勝手に持ち出し、小さな家のようなものを作っていた。
だが、何度やっても倒れた。
屋根を置くと壁が開き、壁を押さえると入口が塞がる。入口を広げると、今度は全体が傾いた。
「また倒れた」
巡が言うと、台所から出てきたさくらが、湯呑みを片手に笑った。
「家に、何が足りんのやろな」
「壁」
「壁もいるな」
「屋根」
「屋根もいる」
「入口」
「入口もいる」
さくらは縁側に腰を下ろし、巡の並べた木片を見た。
「でもな、巡ちゃん。入口ばっかり大きくしたら、家は家でなくなる」
さくらは一本の細い木片を取り、真ん中に立てた。
「柱がいる」
木片は頼りなく立った。
「柱があったら、倒れへんの?」
「柱だけでも、家にはならん。柱だけやったら、人は入れへん。風も通らん。暗い棒や」
さくらは、今度は二本の木片を左右に置き、その間を少しだけ空けた。
「門もいる」
「門」
「そや。人が入るところや。外と中をつなぐところや。でも門ばっかりやったら、誰が来ても入ってまう。何を守ってる家か、分からへんようになる」
巡は、立てられた柱と、開けられた門を見ていた。
「どっちが大事なん」
「どっちもや」
さくらは、短く言った。
「貫索は柱や。ここから先は譲れません、と立つ。石門は門や。どうぞ入ってください、と開く。どちらも木や。どちらも守るためにある。ただ、守り方が違うだけや」
巡は、その時はまだ、貫索も石門もよく分かっていなかった。
ただ、祖母が立てた小さな柱と門の間に、夕方の光が細く通っていたことだけは覚えている。
「巡ちゃん、覚えとき」
さくらは言った。
「柱のない門は、ただの通り道になる。門のない柱は、ただの意地になる」
巡は目を開けた。
目の前には、梢が座っていた。古いしおりを、両手で押さえている。
「萩原さん」
「はい」
「梢さんと航さんは、同じものを守ろうとしています」
梢の目が、少しだけ動いた。
「同じもの、ですか」
「はい。萩原書房という店です」
「でも、やり方が違いすぎます」
「違います」
巡は、紙の上に二つの言葉を書いた。
門。
柱。
「梢さんの中心にあるのは、石門星です。人と人を結び、場所に流れを作る星です。店に読書会を呼び、展示を開き、学生や編集者や子どもたちを迎え入れる。そうやって、店を一人のものではなく、みんなが通れる場所にした」
梢は黙って聞いていた。
「それは、店を軽く扱ったからではありません。梢さんは、店を守るために門を開いたんです」
梢の喉が、小さく動いた。
「守るために」
「はい。人が来なければ、店は閉じる。だから門を開く。それは石門星の守り方です」
巡は、次に「柱」の字を指した。
「弟さんの中心にあるのは、貫索星です。一人で立ち、自分の筋を守る星です。古い棚の匂い、誰にも話しかけられずに本を選べる時間、祖父が残した『急がない人のため』という空気。それを、航さんは守ろうとしている」
「でも、それだけでは店は」
「続かないかもしれません」
巡は、そこで言葉を止めた。
「ただ、続けるために何でも入れてしまうと、何の店だったのかが失われることもあります」
梢は何も言わなかった。
怒りが、すぐに返ってくると思った。だが、彼女は怒らなかった。自分でも一番触れたくなかった場所に、言葉が届いたからだろう。
「私は、間違っていたんでしょうか」
「いいえ」
巡はすぐに言った。
「航さんも、間違っているわけではありません」
梢の目が、少しだけ揺れた。
「それが、一番困ります」
「そうですね」
「どちらかが間違っているなら、楽なのに」
「ええ」
巡は、静かに頷いた。
正しさが二つある時、人は相手を悪者にしたくなる。悪者にすれば、選びやすいからだ。だが、たいていの苦しさは、悪と善の間ではなく、善と善の間に生まれる。
「石門星は、合わせる星ではありません」
巡は言った。
「よく、人に合わせる星だと言われます。たしかに、場に入るのは上手です。相手の顔色も、空気の温度も読む。けれど、本来は、自分を消して相手に合わせる星ではありません。人と人の間に門を作る星です。門には、開ける時と閉める時があります」
梢の指が、しおりの端を押さえた。
「私は、閉めるのが下手です」
「そう思います」
梢は、少しだけ笑った。苦い笑いだった。
「読書会の人に、閉店後も残っていいですかって言われると、断れません。展示の人に、もう一週間だけ延ばせませんかって言われると、断れません。子どもの会のお母さんたちに、日曜の朝も開けてもらえると助かりますって言われると、断れません」
「はい」
「それで、航に怒られます。店の人間が休めない店は、店じゃないって」
「弟さんは、貫索星らしい言い方をされますね」
梢は目を上げた。
「貫索星は、頑固な星ですか」
「頑固です」
巡は、あえて否定しなかった。
「ただ、その頑固さは、ただ人に逆らいたいからではありません。柱は、動かないから柱です。揺れるたびに場所を変えたら、家を支えられない」
「航は、いつも黙っています」
「貫索星の人は、自分の中では筋が通っていることでも、言葉にするのが遅いことがあります。言葉にする前に、もう立ってしまう。立ってしまったあとで、周りから見ると、ただ動かない人に見える」
「そうです」
梢は、初めて少し強く頷いた。
「何を考えているか、分からないんです。でも、分からないまま、そこに立っている。だから、こちらが全部、説明しなければいけない気がして」
「梢さんが門を開け続け、航さんが柱として黙って立ち続ける。そのうち、門は疲れ、柱は孤立します」
梢は息を止めた。
「孤立」
「はい」
「航は、孤立しているんでしょうか」
「おそらく」
巡は、弟のカードを見た。
「航さんは、店を守っているつもりだと思います。けれど、守っているものを誰にも説明しないまま立っていると、周りからは、ただ邪魔をしているように見えてしまう」
梢の顔から、少しずつ怒りが引いていった。
「私、邪魔だと思っていました」
「そうでしょうね」
「でも、航から見たら、私が邪魔だったんですね」
「そうかもしれません」
二人は、しばらく黙っていた。
窓の外で、誰かが自転車を止める音がした。古いブレーキの、短い音。すぐに階下の扉の鈴が鳴り、ミチさんの声がした。
梢は、その音を聞いていた。
「どうすればいいんでしょう」
「話し合いましょう、と言っても、うまくいかないと思います」
「はい。もう何度も失敗しました」
「話し合いは、石門星の言葉です。門を作る側の言葉です」
梢は、少し驚いた顔をした。
「では、何と言えば」
「弟さんに、こう聞いてください」
巡は、紙の下に新しい行を作った。
「この店で、絶対に失くしたくないものを三つ、書いてほしい、と」
「三つ」
「はい。口で答えなくていい。紙に書いてもらってください。貫索星の人は、その方が答えやすいことがあります」
梢は、小さく頷いた。
「私は」
「梢さんは、その横に、この店に新しく入れたいものを三つ書いてください」
「また、ぶつかりそうです」
「ぶつかると思います」
巡は言った。
「ただ、その六つを並べた上で、次に一つずつ消してください。航さんが書いた三つのうち、梢さんがどうしても守れないものを一つ。梢さんが書いた三つのうち、航さんがどうしても入れられないものを一つ」
「消すんですか」
「はい」
「譲る、ということですか」
「違います」
巡は、少しだけ首を振った。
「門と柱の位置を決める、ということです」
梢は、紙の上の「門」と「柱」を見つめた。
「全部を守ることはできません。全部を入れることもできません。柱を立てる場所を決めなければ、門は開けられない。門を開ける場所を決めなければ、柱はただの壁になる」
「航は、消すことに納得するでしょうか」
「納得しないかもしれません」
「ですよね」
梢は、少し笑った。
今度の笑いには、少しだけ余白があった。
「その時は、もう一つだけ伝えてください」
「何を」
「萩原書房は、航さん一人の柱だけでは続かない。でも、梢さん一人の門だけでも続かない、と」
梢の目に、涙が浮かんだ。
「それ、私が言っていいんでしょうか」
「言っていいと思います」
「私、ずっと、航がいなくても店を続けられるようにしなきゃと思っていました」
「はい」
「だって、航は何も言わないから。店に出ないから。私がやらなきゃ、と思って」
「そうでしょうね」
「でも、本当は」
梢の声が、少しだけ震えた。
「航が奥にいるから、私は外の人を呼べたんだと思います」
巡は何も言わなかった。
「誰かが棚を崩しても、航が直してくれる。誰かが全集の一冊を違う場所に戻しても、航が見つけてくれる。古いお客さんが、賑やかになった店に戸惑っていると、航が何も言わずに奥の椅子を空けてくれる」
梢は、しおりを見つめた。
「私、弟が何もしていないと思っていました。でも、違いました。航は、ずっと奥で柱を支えていたんですね」
「そう思います」
「それを、私は、邪魔だと思っていた」
「梢さんも、門を開けることで店を守っていました」
巡は言った。
「自分だけを責めなくていいです」
梢は、涙を拭わなかった。
そのまま、しばらく座っていた。涙が頬に落ちる前に、目の中で乾いていくようだった。
「九条さん」
「はい」
「石門星と貫索星は、仲が悪いんでしょうか」
巡は、少し考えた。
「近いから、ぶつかるのだと思います」
「近い」
「どちらも木性で、どちらも守る星です。遠いもの同士なら、相手のことを別の国の話として聞けます。でも、石門と貫索は、同じ守りの話をしている。だから、相手のやり方が、自分への批判に聞こえる」
梢は頷いた。
「航が『ここはもう本屋じゃない』と言った時、私は『お前のやっていることは全部間違いだ』と言われた気がしました」
「航さんには、梢さんの読書会が『お前の守っている店は古い』と言っているように見えたのかもしれません」
「言っていないのに」
「言っていなくても、そう聞こえることがあります」
梢は、深く息を吐いた。
「面倒ですね」
「人は、たいてい面倒です」
巡がそう言うと、梢は初めて、声を出して笑った。
笑い終えたあと、彼女は机の上の紙を見た。
「三つ、書いてもらいます」
「はい」
「私も、三つ書きます」
「はい」
「でも、たぶん航は、最初に何も言わないと思います」
「その時は、待ってください」
「どれくらい」
「一晩」
梢は目を丸くした。
「一晩ですか」
「貫索星の柱は、急に生えません。ゆっくり立つものです」
「石門星は」
「石門星の門も、すぐ開けないでください」
巡は、紙を梢の方へ押した。
「誰かが来たから開けるのではなく、何を通すための門なのかを決めてから開ける。その練習です」
梢は、紙を両手で受け取った。
「難しいですね」
「はい」
「でも、閉める練習も、してみます」
「それがいいと思います」
診断が終わる頃には、窓の外の影が長くなっていた。
梢は鞄に古いしおりを戻し、紙を折らずに本の間へ挟んだ。紙を折らないところに、店の人間らしさがあった。
扉の前で、彼女は振り返った。
「九条さん」
「はい」
「私は、航に謝った方がいいんでしょうか」
「謝る前に、聞いた方がいいと思います」
「何を」
「航さんが、何を守っていたのかを」
梢は、しばらく巡を見ていた。
それから、静かに頭を下げた。
「分かりました」
彼女が出ていったあと、診断所には古い紙の匂いが残った。乾いた糊と、少しだけ埃を含んだ匂い。古い本を開いた時に、最初に立ち上がる匂いだった。
巡は、机の上の祖母のノートを見た。
門。
柱。
自分の命式にも、その二つはあった。
中心に貫索星。西に石門星。
一人で立とうとする柱と、人を結ぼうとする門。その二つが、自分の中で、何度も位置を変えてきた。
医師だった頃、巡は柱であろうとした。患者の前で揺れないこと。判断を誤らないこと。誰かの身体を預かる以上、自分の迷いを見せてはいけないと思っていた。
起業した時、巡は門を開いた。医療を必要としている人と、届かない医療の間に、通り道を作ろうとした。技術者、投資家、医師、患者。あらゆる人を一つの場所へ迎え入れた。
だが、門を大きくしすぎたのかもしれない。
あるいは、柱の位置を、誰かに任せすぎたのかもしれない。
慧の顔が、ほんの一瞬だけ浮かんだ。
巡は、すぐに視線をノートへ戻した。
今はまだ、そこへ行かない。
祖母の字の横に、巡は万年筆で一行を書き足した。
「門は、何を通すかを選ぶ。柱は、誰のために立つかを知る」
インクが紙に沈むまで、巡はしばらく待った。
窓の外で、夕方の風が吹いた。
開けた窓から入った風が、ノートのページを一枚だけめくった。
三日後、短いメールが届いた。
差出人は、萩原梢だった。
件名はなかった。
九条さん
弟に、三つ書いてほしいと伝えました。
最初は何も言いませんでした。
翌朝、レジの横に紙が置いてありました。
1 店の奥の椅子
2 祖父のしおり
3 誰にも急かされずに本を選べる時間
私は、三つ書きました。
1 夜の読書会
2 子どもの本の日
3 翻訳の勉強会
二人で、一つずつ減らすものを決めました。
弟は、翻訳の勉強会を消しました。
私は、祖父のしおりを消せませんでした。
代わりに、夜の読書会を月二回に減らしました。
まだ、話は終わっていません。
でも昨日、航が店の奥の椅子に、新しい灯りを置いていました。
誰にも急かされずに本を選べる時間、という紙の横に。
たぶん、まだ続けられます。
巡は、何度か読み返した。
返信欄に指を置き、少し考えた。
長い言葉は要らないと思った。
続ける形が、少し見えてきたようでよかったです。
門も柱も、急がず整えてください。
送信してから、巡は窓辺の鉢植えに水をやった。
細い蔓は、支柱に沿って伸びていた。
支柱があるから、蔓は上へ行ける。
蔓があるから、支柱はただの棒ではなくなる。
巡は、空になった水差しを机に戻した。
夕方の光が、診断所の床に細い線を引いていた。
門のようにも、柱の影のようにも見えた。