EP011 泉と畑 — 禄存と司禄

Summary

九条巡の運命診断所

EP011 泉と畑 — 禄存と司禄

五月の連休が明けた最初の月曜だった。

養心堂の前の路地で、誰かが鉢植えを並べ替えている音がしていた。素焼きの鉢を石の上に置く、控えめだが律儀な音。並べ終えると一度離れ、二歩下がって、もう一度位置を直しに戻る。そういう音だった。

巡は二階の窓辺で、その音を聞いていた。

与える人と、置き直す人と、世の中にはいる。並べ終えた花を見て黙って通り過ぎる人もいれば、誰が並べたのかを確かめてから礼を言う人もいる。礼を言う方が正しいわけでもなく、言わない方が冷たいわけでもない。ただ、引力の質が違う。

階下の鈴が鳴った。

足音は二人分だった。

一人は軽い。もう一人は、踏み板の真ん中をきちんと踏んでいる足音だった。前者は「来てしまった」足音で、後者は「連れてきた」足音だった。

ノックは、後者の方がした。

「どうぞ」

扉が開いた。

先に入ってきたのは、四十前後の女性だった。きちんとアイロンのかかった麻のシャツに、薄い灰色のスカート。化粧は控えめで、髪はうしろで一つに束ねてある。手には、革のシステム手帳と、ハンドクリームの小さな缶を一つ。

その後ろから、男性が入ってきた。

四十代後半だろうか。よれた紺のジャケットの肩に、犬の毛らしきものが二、三本ついていた。胸ポケットには、ボールペンが三本。一本はキャップが行方不明だった。柔らかい笑顔で、入ってくるなり、巡と養心堂のミチさんと、廊下に置いてある古い壺に、順番に会釈をしていった。

「予約していた、宮野です」

女性が言った。

「宮野彩子と、夫の宮野隆昭です」

「九条です。どうぞ、おかけください」

二人はソファに並んで座った。彩子は手帳を膝の上に置き、隆昭は、座ってから周りをきょろきょろ見回した。窓辺の鉢植えに目を止めて、小さく「あ、これ、葉水あげるの上手ですね」と言った。彩子は何も言わずに、夫の腕を軽く叩いた。叩いた手は、少しだけ申し訳なさそうだった。

「今日は、どのようなご相談でしょう」

巡が問いかけると、隆昭は彩子の方を見た。彩子は隆昭を見ずに、まっすぐ巡を見た。

「私たちの相性、というか」

彩子は言葉を選んだ。

「夫のあり方を、私がどう受け止めればいいのか、それを伺いたくて来ました」

「あり方」

「夫は、人に好かれます」

彩子は静かに言った。

「これは皮肉でも嫌味でもありません。事実として、夫は誰に対しても親切で、誰の話も聞きます。会社の後輩、近所の老人、コンビニの店員、犬。本当に、犬にもです。先週、雨の日に濡れた野良猫を抱いて帰ってきて、拭いてやって、ご飯をやって、結局その猫の飼い主を一週間かけて探し出して、戻しに行きました」

隆昭は、ばつが悪そうに笑った。

「いや、あれはたまたま」

「たまたまではありません」

彩子はそこで初めて夫を見た。視線は柔らかかった。柔らかかったが、譲っていなかった。

「あなたは、たまたまではなく、いつもそうです」

隆昭は、頭をかいた。

巡は、その「頭をかく」動きを見ていた。叱られて困っているというより、自分のしたことの理由が自分でもうまく説明できないという困り方だった。

「夫は、人に何かを与えるのが、息をするように自然なんです。誰かが困っていると、計算する前に手が出ている。お金もそうです。後輩に貸す。親戚に出す。町内会の祭りで足りないと聞けば、自腹で揃える。本人は『大したことない』と言いますが、年単位で見ると、けっこうな額です」

彩子は手帳を開かずに、表紙の上で指を組んだ。

「私は、家計を見ています。十五年、見ています。だから、夫が外でいくら配っているか、たぶん夫より私の方が知っています」

隆昭は、そこで初めて少し顔を曇らせた。

「彩子、それは──」

「責めているんじゃないです」

彩子は静かに首を振った。

「責めていたら、ここには来ていません。責めるなら家で済みます。私はただ、自分の中に、説明のつかない冷たさがあるんです。それが何なのかを、知りたい」

「冷たさ」

「夫が他人に親切にするたびに、私は、ありがたいと思いながら、同時に、少しだけ削られます。何が削られているのか、よく分かりません。夫の優しさを疑っているわけではない。夫が浮気をしているわけでもない。家族のことも、ちゃんと大切にしてくれている。それなのに」

彩子は手帳の表紙を、指の腹でゆっくり撫でた。

「夫が誰にでも優しいということが、私には、時々、苦しい」

隆昭は、何かを言いたそうにして、結局言わなかった。

その「言わなかった」を、巡は待った。

「先生」

隆昭が言った。

「すみません、僕、自分の何が悪いのか、本当によく分かっていなくて」

「悪いとは、まだどこにも言っていません」

「あ、はい」

「ただ、彩子さんが感じていらっしゃる『削られる』という言葉は、放っておかない方がいい言葉だと思います。気のせいで出てくる言葉ではありません」

隆昭は、神妙に頷いた。

彩子は、静かに手帳を膝の上に置き直した。

「夫の生年月日と、私の生年月日、お持ちしました」

彩子が手帳の最初のページから、二枚のメモを取り出した。

宮野隆昭。一九七九年八月十九日。

宮野彩子。一九八九年八月十七日。

二枚のメモは、同じ筆跡で書かれていた。

巡はそれを見て、一度だけ目を伏せた。

誰かの命式を自分の字で書く人には、いくつかの種類がある。代筆を頼まれて書く人、相手の生年月日を覚え込みたくて書く人、自分の生年月日も含めて家計簿のように管理している人。彩子の字は、三つ目だった。家族の生年月日が、彼女の手帳の最初のページに、家族の血液型と同じ列に並んでいる字だった。

「お二人の命式、出してもいいですか」

「お願いします」

筆先が紙の上を進む。十干。十二支。星。五行。

宮野隆昭。日柱、戊午。日干が陽の土。太陽に照らされた、広く厚い大地。盤面の中央と南に禄存星が二つ。禄存星は土性の星。土の上にさらに土が立ち、総量の大半を土が占めている図だった。北と西には石門星。誰か一人を囲うより、周りにいる者をみな仲間にしてしまう形をしていた。

宮野彩子。日柱、己酉。日干が陰の土。畑の土。盤面の中央と南に司禄星。北に貫索星。司禄星もまた、土性の星。耕された土の畝の上に、もう一度、整えられた畝が重なっている図だった。ただ、木が一本もない。畑の境を示す杭も、防風林も、伸びていく方向を教える枝も、命式の中には見当たらなかった。

巡は二つの命式を並べた。

大地と、畑。

禄存星と、司禄星。

どちらも土から生まれた星だった。どちらも、人が拠り所にする星だった。ただ、土の使い方が、まったく違った。

「宮野さん」

巡は、二人の方を見た。

「先に、一つだけ申し上げてもいいですか」

「はい」

二人は同時に頷いた。同時に頷ける夫婦だった。それ自体が、十五年の重みだった。

「お二人とも、土の人です」

彩子が小さく目を見開いた。

「土」

「日干が、お二人とも土性です。違うのは、隆昭さんが陽の土、戊。広く開けた大地。彩子さんが陰の土、己。耕されて整えられた畑」

巡は紙の上に、戊と己の二文字を並べて書いた。

「同じ土でも、戊の土は遠くまで広がります。誰が踏み入っても、誰が掘り返しても、土は土のまま、慌てません。そういう器です。己の土は、畝が立っています。種を蒔く場所と、蒔かない場所を、はっきり分けています。一度耕した土を、別の人にむやみに踏まれたくない器です」

隆昭は、なるほど、という顔で頷いた。彩子は、頷かなかった。彩子は、言葉が自分の中に届くのを待っていた。

「次に、心の星です」

巡は、二つの命式の中央を指で示した。

「隆昭さんの命式には、禄存星が二つ並んでいます。これは、土性の中でも、特に『陽の引力』を持つ星です。算命学では、『無償の引力』と呼ばれます」

「むしょうの、いんりょく」

彩子が、その四文字を口の中で繰り返した。

「禄存星の人は、与えることが本能です。見返りを計算して与えるのではありません。『計算して与える』という発想自体が、薄いんです。井戸が水を汲み上げるのに、誰のための水か聞かないのと同じです。湧くから、出す。出すから、また湧く」

「井戸」

彩子の目が、紙の上の禄存星の二文字に止まった。

「夫は、井戸なんですか」

「禄存星二つは、井戸が二つ、という見方ができます」

隆昭は、ぱちぱちと瞬きをしていた。

「井戸、そんないいもんじゃないですよ。僕、ただ断れないだけで」

「断れない、ではなく、断る前にもう手が動いている、です」

「ああ、それは、はい、たぶん、そうです」

「禄存星の人にとって、与えることは奉仕や善行ではありません。生きていることと、ほとんど同じです。だから、『今日は与えませんでした』という日は、本人にとって、息を止めて過ごしたみたいな日になります」

巡はそこで、一度だけ隆昭を見た。

「ただし、禄存星は、ただの自己犠牲の星ではありません。与えることで、人が寄ってくる。寄ってきた人の顔を見ることで、自分の井戸がまだ湧いていると分かる。そういう喜びも持っています。隆昭さんが町内会や職場で頼られるとき、そこには優しさと同時に、『自分がここにいていい』という感覚も混じっているはずです」

隆昭は、少しだけ目を伏せた。

「あります」

短い返事だった。

「頼られると、ほっとします」

隆昭は、自分の手のひらを見た。

ボールペンのキャップを失くしやすい手だった。誰かに何かを書いて渡すたびに、片手間にキャップを落としていく手だった。

「彩子さん」

巡は、彩子の方に視線を移した。

「彩子さんの中心の星は、司禄星です。同じ土性ですが、こちらは『有償の引力』と呼ばれます」

「ゆうしょうの、いんりょく」

「有償というのは、お金で計る、という意味ではありません。司禄星の引力には、『関係の輪郭』があります。誰のための土か、誰のための種か、それを最初にきちんと決める。決めた相手に対しては、深く長く尽くせる。決めていない相手に、無計画に水を分け与えることはしない」

「決めた相手に、深く」

「司禄星は、家庭の星とも呼ばれます。畑の比喩で言うなら、毎年同じ場所に同じ家族のための作物を植え、雑草を抜き、肥やしを足し、季節をまたいで育てる星です。司禄星の人にとって、愛は積み重ねるものです。一度に大きく与えるよりも、毎日少しずつ蓄え、それを自分の家族や、自分が選んだ近しい人に、長く分け続けるかたちを取ります」

「それは、けち、ということとは違いますか」

彩子は、その言葉を自分で出してから、少しだけ肩を固くした。

「違います」

巡は、すぐに答えた。

「司禄星の蓄積は、出し惜しみではありません。守る相手を決めたから、すぐには出さないんです。蓄えること自体が、忠誠の形になっています」

彩子は、手帳の表紙を、もう一度ゆっくり撫でた。

「先生、それは、私の家計簿そのものです」

彩子は、自分の言葉に少し驚いたように、唇を噛んだ。

「私は、夫の月給を、毎月四つの封筒に分けます。生活、子供の学費、夫婦の老後、緊急用。十五年、ほぼ同じ比率で分けてきました。年に一度だけ比率を見直します。比率を見直す日も、毎年同じ日にしています。元日です」

隆昭は、横で、ぽかんと口を開けていた。

「彩子、四つの封筒に分けてたの」

「言ったでしょ、何回か」

「ああ、いや、聞いたかも」

彩子は小さく笑った。今日初めての笑いだった。笑いではあったが、苦さも混じっていた。

「夫は、私の畑を踏み荒らしたりはしません。子供のことも大切にしてくれる。家計の決め事にも文句は言いません。ただ──」

彩子は、しばらく言葉を探していた。

「夫が、外で先生が仰る『隣の畑』にも、平気で水をやっている、その姿が、目に入ります」

巡は、ゆっくり頷いた。

「禄存星の人にとって、畑と畑の境界は、はっきりしません」

「はっきり、しない」

「水は流れて当たり前。土は地続きで当たり前。誰の土地かよりも、足りないところに足す方が先。そういう感覚で生きています。隆昭さんが他人にお金を貸すのも、雨の日に猫を拾うのも、町内会で足りないものを揃えるのも、本人にとっては、自分の家の畑への水やりと同じ動きです」

彩子は、長く息を吐いた。

「私には、別の動きに見えます」

「司禄星の人にとって、畑と畑の境界は、はっきりしています」

巡は紙の上に、二つの円を描いた。一つは大きく、輪郭が薄い。もう一つは小さいが、輪郭がはっきりしている。輪郭のはっきりしている方の円の中に、いくつもの畝を描き込んだ。

「畑の中で、誰のための畝かも分かれています。だからこそ、一年単位、十年単位で、家族のための実りを守れる。司禄星の蓄積は、輪郭があるから可能になっています。輪郭がなくなれば、蓄積も意味を失います」

彩子は、その絵をじっと見ていた。

隆昭も、少し離れたところからその絵を覗き込んでいた。

「先生」

隆昭が言った。

「僕、彩子の畑の畝、ぜんぜん見えてなかったです」

「禄存星の人には、畝は最初から、視界に入りにくいものです」

「ええっ」

「悪意ではありません。視覚の話に近いです。井戸を掘って暮らしてきた人は、土を畝に分けて使う発想が、生まれたときから希薄です。逆に、畑を耕してきた人は、井戸が湧くままに水を出すという感覚が、なかなか分かりません」

彩子は、夫の方を見た。

今度は、軽く腕を叩かなかった。ただ、見ていた。見ながら、少し悲しい顔をしていた。悲しい顔のまま、小さく笑った。

「あなた、私の畝、見えてなかったの」

「うん、見えてなかった、みたい」

「十五年も?」

「十五年も、たぶん」

隆昭は、その告白を、隠さずにした。

巡は、その正直さを見ていた。

禄存星の人は、嘘を計算する手間を惜しむ。隠すための言葉を選ぶより、その場で湧いた水を出す方が、本人にとっては早い。それは美徳でもあり、罪でもある。

「彩子さん」

巡は、彩子の方に向き直った。

「ここから先は、少しだけ慎重にお話しします」

彩子は、頷いた。

手帳の表紙に置いた指が、少しだけ強くなった。

「彩子さんが、夫が他人に親切にするたびに『削られる』と感じる、その感覚の根のところに、もう一つ、別の問いがあるかもしれません」

「別の問い」

「『私は、選ばれて愛されているのか』という問いです」

彩子は、目を伏せた。

長い瞬きだった。瞬きの間に、何かが目の奥で、一度きちんと、定位置に戻った。

「先生、それは」

「司禄星の方には、よく出てくる問いです。悪い問いではありません。むしろ、司禄星の人にとっては、当然の問いです」

「当然」

「司禄星は、『関係の輪郭を引いて、その内側を深く守る』星です。つまり、『あなたは私の輪郭の中の人です』と相手に決めてもらえることが、安心の土台になります。逆に言えば、相手の愛が、自分も他人も同じように包んでしまう種類の愛だと、輪郭が描けない。輪郭が描けない愛は、司禄星の人にとっては、愛が薄まったように感じられます」

「薄まる」

彩子は、その言葉を口の中で噛み締めた。

「先生、私は、夫が他人に優しくするのが嫌だったのではなくて、夫の優しさの中に、私だけのための部分が見えなかったのが、しんどかったんですね」

「『見えなかった』というより、隆昭さんの星には、『私だけのため』という畝の引き方が、もともと、ほぼ、ありません」

隆昭が、ゆっくり頷いた。

頷きながら、少し落ち込んだ顔になった。

「先生、それは、僕、彩子だけを愛せていない、ということですか」

その問いが、来ると分かっていた。

巡は、すぐに答えた。

「いいえ」

隆昭が、顔を上げた。

「それとは、違います。禄存星の人の愛は、『誰のための愛か』ではなく、『どれだけ自分の中から湧き続けるか』で測られます。隆昭さんが、十五年間、毎日休まず井戸を汲み続けて、その水の半分以上が、彩子さんと、お子さんの方を向いていたのは、間違いない事実です。半分以上、井戸の向きが家族側に傾いている井戸を、井戸の側から愛と呼べるか、ご本人にも、たぶんよく分からないと思います」

「分からないです」

隆昭は、率直に言った。

「でも、たぶん、向いていました。家族の方を、向いていました」

「はい」

「彩子のことを、誰よりも、その、好きです」

隆昭は、その言葉を、十五年の中で何度目かに、自分の口で出した。出してから、自分でも少し驚いた顔をした。

彩子は、その夫を、長く見ていた。

長く見て、長く黙って、それから、目尻だけを少し緩めた。

「先生」

彩子が言った。

「それは、夫の言葉ではあるんですが、私の畝の中に、ちゃんと届く言葉でしょうか」

「届きます」

巡は、ゆっくり言った。

「ただし、井戸の側から畝の中に届けるためには、水の出し方を変えなければならないかもしれません」

「水の出し方」

「禄存星の井戸は、一度に広く出します。広く出した水は、畝にも入りますが、畝の外にもたくさん流れます。彩子さんの畝の中に、夫からの水だけが届いている、と分かるためには、井戸の方から、一日のどこかで、彩子さんの畝に、専用の樋を渡す動作が要ります」

「専用の樋」

彩子は、そのたとえを、しばらく口の中で確かめていた。

「具体的には、どんな動作になるんでしょう」

「ささやかなことです。たとえば、隆昭さんが他人に何かを与えた日には、その日の終わりに、彩子さんに『今日、これを誰々に渡した』と一言だけ言う。お金の話でなくて構いません。隆昭さんが今日どこに水を出したかを、彩子さんに知らせるだけの動作です」

「報告ということですか」

「報告というより、『今日、僕の井戸はここまで使った。残りはあなたとお子さんのために、まだあります』と、井戸の地図を毎日描き直して見せる動作です」

隆昭は、メモを取り始めた。

メモを取りながら、ボールペンのキャップが、ソファの隙間に転がり落ちた。隆昭は気づかなかった。彩子は、それを見て、小さく息を吐いた。息の中に、苦笑と、少しだけ、解れたものが混じっていた。

「彩子さん」

巡は、もう一つの方向にも触れることにした。

「もう一つ、こちらは隆昭さんの方ではなく、彩子さん自身の方の話なのですが」

彩子は、姿勢を直した。

「司禄星の人は、自分が『愛されるに値するかどうか』を、関係の中で問い続ける癖を持つことがあります」

「愛されるに、値するかどうか」

「無償の引力で寄ってくる人ほど、司禄星の人にとっては、扱いが難しい相手です。なぜなら、無償の引力は、自分が頑張ったから来てくれているのか、それとも自分でなくても来てくれているのか、見分けがつきにくい」

「ああ──」

彩子は、思わず、声を漏らした。

「私は、たぶん、夫が私を選んでくれた根拠を、ずっと探していました」

「探さなくていい、とは申し上げません。司禄星の人にとって、根拠は、生きるための土台です。ただ、夫の愛には、最初から『他人と同じ顔で来る』という出方がある、ということを、知っておかれるだけで、楽になるところはあると思います」

「他人と同じ顔で、来る」

「禄存星の人は、隣人にも、家族にも、犬にも、ほぼ同じ顔の優しさを差し出します。それは、家族をぞんざいに扱っているのではありません。家族にだけ別の顔を出す、という発想が、星の構造として、薄いんです」

彩子は、自分の手のひらを見た。

看護のような手だった。短く切られた爪。乾燥しがちな指の腹。家族のために働き続けた手だった。

「先生」

「はい」

「私は、夫が私だけに『特別な顔』を見せてくれていないことに、ずっと、傷ついていました」

「はい」

「でも、夫の星は、特別な顔を作るタイプの星ではない、と」

「特別な顔を作る代わりに、井戸の向きを家族の方に傾け続ける、というやり方で、特別さを示すタイプの星です。出方が、地味なんです」

「地味」

彩子は、少しだけ笑った。

「夫を一言で言うなら、『地味に優しい』が、いちばん近いかもしれません」

「彩子さん、それは、いい呼び方だと思います」

隆昭は、横で、神妙な顔で頷いていた。

「『地味に優しい夫』──。先生、僕、それを名乗っていきます」

「名乗らなくていいです」

彩子は、夫の腕を、今度はちゃんと優しく叩いた。

叩いた手は、もう、申し訳なさそうではなかった。

巡は、二つの命式の間に、細い線を引いた。

「お二人の関係は、土性同士です。土と土は、本来、よく合います。ただ、合うからこそ、ズレが見えにくい。広い大地と、整った畑は、外から見れば一続きの風景ですが、中に立ってみると、まったく違う使い方をされている土地です」

「同じ土に、見えてしまう」

「お二人がこの十五年、致命的な衝突を起こさずに来られたのは、お二人とも『土の星』だからです。土の星は、争いを長く引きずりません。引きずらないからこそ、引きずらなかった分の小さなズレが、彩子さんの中に静かに溜まっていました。それが、『削られる』という言葉になって出てきたんだと思います」

「溜まっていた」

「司禄星は、いいことも、悪いことも、よく蓄積します。蓄積は、司禄星の最大の力ですが、最大の弱点でもあります」

彩子は、深く息を吐いた。

長い息だった。

「先生、私は、夫を責めるために、これを溜めていたわけではないんです」

「分かります」

「私は、たぶん、ここまで溜めないと、自分の中にある『削られる』という感覚を、ちゃんと言葉にできなかったんだと思います」

「司禄星の人は、急いで言葉にしなくてよい星です。十五年かけて言葉にできたものは、五年かけたものより、深く根を持ちます」

彩子は、少しだけ、目元を緩めた。

目元を緩めた瞬間、彩子の手帳の表紙の上に、小さな水滴が一つ落ちた。

彩子はそれを、自分の指で、ゆっくり拭いた。

慌てなかった。

司禄星の人の涙の拭き方だった。

巡は、もう一つだけ、踏み込むことにした。

踏み込むかどうか、一拍だけ迷った。

迷った先に、ここまで来た二人に対する礼儀があった。

「最後に、もう一つだけ、お話しします」

二人は、頷いた。

「禄存星の人と、司禄星の人とが、長く一緒に暮らすときに、どこかの段階で必ず立ち会う問いがあります」

「問い」

「『与えることには、代償があるのか、ないのか』という問いです」

彩子は、すぐにその問いの重さを察した顔をした。

隆昭は、少し遅れて、神妙になった。

「禄存星の人は、与えることに代償はないと、本能で信じています。湧くから、出す。出したら、また湧く。それが世界の理だ、と」

「代償は、ない」

「司禄星の人は、与えることには必ず代償があると、本能で知っています。育てた作物を出せば、その分、畑は薄くなる。だから、誰に出すか、いつ出すか、慎重に選ぶ。選んで、選んだ相手のために、長く出し続ける。出すたびに自分が薄くなることを、最初から織り込んでいます」

「薄く、なる」

「ここまでは、ただの星の説明です。ただ、二つの星が一緒に暮らすときに、難しいのは、ここからです」

巡は、紙の上の井戸の絵と、畑の絵を、指でゆっくりなぞった。

「禄存星の井戸も、本当は、無限ではありません。本人が代償を感じないだけで、長い時間で見ると、必ず疲れます。年を取ると、湧きが弱くなる時期も来ます。そのとき、井戸の人ほど、自分の弱りに気づくのが遅れます。湧くものだと信じて生きてきたから、湧かない自分を、自分で受け入れにくい」

隆昭は、自分の手のひらを、もう一度見た。

四十代後半の手だった。十五年前と、同じ動きはできない手だった。

「司禄星の畑の人は、その井戸の弱りを、誰よりも早く察知します。家計簿の数字でも、夫の足取りでも、夜の寝息でも。畑の人は、土と水のバランスを、毎日、無意識に計っています」

彩子は、はっとした顔をした。

「先生」

「はい」

「私が、夫の親切を『削られる』と感じたのは、もしかして、夫の井戸を、私が、心配していた、ということもあるんでしょうか」

巡は、すぐには答えなかった。

答えを急ぐと、彩子はそこに飛びついてしまう。飛びつくことで、自分の中の冷たさを、ぜんぶ「夫を心配する優しさ」として説明してしまう。それは、彩子の中の傷を、もう一度、別の言葉で覆い隠してしまうことになる。

「両方、あると思います」

巡は、そう言った。

「彩子さんが、選ばれていることを確かめたい気持ちと、夫の井戸の枯れ方を案じている気持ちと、両方が、同じ『削られる』の中に入っていると思います。どちらか一方ではありません」

「両方」

「司禄星の人の感情は、たいてい、一つの言葉の中に、複数の意味を蓄積します。短い言葉で全部を言わないだけで、中身は、いくつも入っています」

彩子は、自分の手帳に視線を落とした。

その手帳の最初のページには、家族の生年月日が並んでいた。

夫と、子供と、夫の両親と、自分の両親と、自分。

それぞれの数字が、いつ書かれた数字なのか、彩子は、ぜんぶ覚えていた。

「先生」

「はい」

「私は、与えることには代償がある、と思って生きてきました。夫の代償を、夫の代わりに払っているような気がする日も、ありました」

「払っていらしたと思います」

巡は、はっきりと言った。

「禄存星の井戸が湧き続けるためには、井戸を整える人が要ります。井戸を整える人は、井戸の中には立てません。井戸の外で、井戸が枯れないように、畑の方の水のやり方を、毎日少しずつ調整しています。司禄星の人の蓄積は、井戸を支える土台にも、なっています」

彩子は、深く頷いた。

「私は、夫の井戸の、土台だったんですね」

「土台でもあり、井戸の脇の畑でもあります。畑があるから、井戸の周りが乾き切らない。井戸があるから、畑が水を絶やさない。お二人は、同じ土性の中で、最も基本的な共生のかたちを取っています」

隆昭は、しばらく黙っていた。

黙ったまま、自分の膝の上の、彩子の手の方を見ていた。

「彩子」

隆昭が、低い声で言った。

「俺、与えてばっかりだと思ってた。彩子に、与えてばっかりだと」

彩子は、夫の方を見た。

「俺は、彩子から、ずっと、もらってた」

彩子は、何も言わなかった。

言わずに、夫の手の上に、自分の手を重ねた。

短く切った爪の指が、夫のキャップを失くしやすい指の上に、ゆっくり乗った。

その動きは、十五年で初めての動きではなかったかもしれない。だが、初めて、二人が同時にその意味を分かった動きだった。

巡は、それを見て、視線を窓辺の鉢植えに移した。

鉢植えの土は、湿っていた。湿っているが、根の周りに空気の通る隙間がある。水と、土と、隙間の三つが揃っていなければ、根は息ができない。井戸も、畑も、隙間も、全部要る。

「お二人に、宿題を一つだけ、出してもいいですか」

巡が言うと、二人は同時に頷いた。

また、同時に頷ける夫婦だった。

「隆昭さんに一つ。彩子さんに一つです」

「お願いします」

「隆昭さんは、これから一週間、毎日寝る前に、彩子さんに一つだけ、その日の井戸の地図を渡してください。『今日、誰々に何々を渡した。家族の分は、まだここにある』と、一言で構いません。長く話す必要はありません。地図さえ渡れば、彩子さんは、それを自分の畑に並べ直します」

「井戸の地図」

「彩子さんは、これから一週間、夫が地図を渡してきたら、それを聞いた後で、一つだけ、夫に返してください。『今日の畑の様子』を、一つだけ。子供の話でも、家計の話でも、ご自身の体調の話でも構いません。夫に、彩子さんの畑の中の、今日の畝を、一つ、見せてください」

「畑の様子」

「井戸の人は、畑の畝が、外からは見えにくい星です。一日に一畝ずつ見せてもらえると、一週間で七畝、見えます。七畝見えれば、畑の輪郭が、井戸の人にも、ようやく分かり始めます」

隆昭は、メモ用紙に、地図、と書いた。彩子は、自分の手帳に、畝、と書いた。

二人の字は、すぐ隣に並んだ。

「先生」

彩子が言った。

「これは、相性の問題ではないんですね」

「相性は、最初から悪くありません。問題は、相性の良さに甘えて、お互いの星の出方を、説明しないまま十五年を過ごしてきたところにあります」

「説明する」

「土の星どうしは、争わないので、説明しなくても暮らせてしまいます。暮らせてしまうことが、星の弱点です。井戸の地図と、畑の畝は、本当は、毎日見せ合った方がいい種類のものです」

二人は、長く黙って、その言葉を受け取っていた。

帰り際、彩子は、扉の前で振り返った。

「九条先生」

「はい」

「今日、来てよかったです」

「お役に立てたなら」

「私、夫を責めにきたわけでもなく、夫を許しにきたわけでもなかったんです。ただ、自分の中の冷たさに、名前をつけたかった」

「司禄星の人は、名前のつかない感情を、長く持てません。長く持つと、畑の畝が、ねじれてしまいます」

「畝、ねじれます。本当に」

彩子は、初めて、まっすぐに笑った。

隆昭は、その横で、ボールペンのキャップが、いつの間にか手の中に三つ集まっていることに、気づいていなかった。

二人が階段を下りていく音は、来た時と少し違っていた。

彩子の足音は、一段ずつ、踏み板の真ん中をきちんと踏んでいた。それは変わらない。ただ、隆昭の足音が、彩子の足音の半拍後ろに、合わせるように下りていた。

来た時は、隆昭は彩子の前を歩いていた。

帰りは、半歩、後ろになっていた。

扉が閉まったあと、診断所には、麻のシャツのアイロンの匂いと、犬の毛を払った時のかすかな残り香が、二つ並んで残った。

その一週間後、養心堂の閉店間際に、ミチさんが二階へ上がってきた。

「宮野さんの奥さんから、これ」

差し出されたのは、白い封筒だった。差出人の名前はなかった。封は、糊ではなく、細いマスキングテープで留めてあった。貼り直せるように、端が少しだけ折り返されていた。

巡は机の上で封を開いた。

中には、手帳のリフィルが一枚だけ入っていた。

罫線の上に、彩子の字で、七日分の短い記録が並んでいた。

一日目。

町内会のトイレットペーパー代を立て替えた。家族の分は、まだここにある。

息子が体育の靴下をなくした。予備を出した。

二日目。

後輩に昼食をおごった。家族の分は、まだここにある。

冷凍庫の奥に去年の筍が残っていた。夕飯に使った。

三日目。

雨の日に、駅まで隣の人を送った。家族の分は、まだここにある。

洗面所の電球が切れた。買い置きはなかった。

四日目。

会社の集金袋に足りない分を足した。家族の分は、まだここにある。

足りない分は、来月の雑費から移す。

五日目。

迷子の犬を交番まで連れていった。家族の分は、まだここにある。

あなたのジャケットに、また毛がついた。

六日目。

何も渡していない。けれど、家族の分は、ここにある。

私は今日、何も削られなかったわけではない。でも、どこが削れたかは分かった。

七日目。

彩子に、花を買った。家族の分は、ここにある。

花瓶を出した。花は、台所に置いた。

最後の行だけ、少し字が揺れていた。

巡は、その揺れをしばらく見ていた。

夫の字と、妻の字が、同じ紙の上に並んでいた。上の行は少し大きく、勢いがあり、ところどころ漢字が開いていた。下の行は小さく、均等で、余白をきちんと残していた。井戸の地図と、畑の様子。水の流れと、畝の記録。

七日分のどこにも、劇的な反省はなかった。

隆昭は、まだ外に水を出していた。彩子は、まだ家の中を整えていた。町内会のトイレットペーパーも、後輩の昼食も、迷子の犬も、消えてはいなかった。家計の移し替えも、買い置きの不足も、花瓶を出す手間も、消えてはいなかった。

ただ、七日目の花だけが、少し違っていた。

花は、誰かに頼まれて買ったものではなかった。足りないところに足したものでもなかった。彩子の畑の中に、一本だけ、隆昭が自分で選んで植えたものだった。

リフィルの下端に、彩子の字で一行だけ添えてあった。

削られる感覚は、まだあります。

その下に、少し間を空けて、もう一行。

でも、どこが削れたかを、二人で見ることはできます。

巡は、紙を折り直さず、そのまま机の上に置いた。

完全に癒えた夫婦の記録ではなかった。

だから、よかった。

癒えたと言い切れるものほど、次の季節に弱い。畑は毎日荒れる。井戸は毎日濁る。毎日、整え直すしかない。司禄星の愛は、その面倒を愛と呼ぶ。禄存星の愛は、その面倒を面倒と思わないうちに外へ出ていく。

その二つが一枚の紙に並んだだけで、夫婦は、前より少し、夫婦になっていた。

巡は、手帳を開いた。

宮野隆昭──戊午。

宮野彩子──己酉。

その下に、万年筆で書き添えた。

「井戸は、湧くから出す」

少し間を置いて、もう一行。

「畑は、決めたから守る」

最後にもう一行、書き足した。

「井戸と畑は、別の働きで、同じ土を生かす」

インクが沈むのを待つ間、巡は窓の外を見た。

路地の鉢植えは、誰かが並べ替え終えていた。並べた人の姿は、もうなかった。鉢の位置だけが、午前より、半歩、日向の方に寄っていた。

与える人にも代償はある。守る人にも代償はある。代償を払い合う相手として、二人を引き寄せる引力を、星は、土という同じ字の中に、二種類、用意していた。

無償の引力と、有償の引力。

どちらが愛か、という問いを、巡は、長くしないことに決めていた。

愛される資格を問わずに済む人はいない。問わずに済む愛も、たぶん、ない。ただ、問いを置いたまま、隣に座り続けることはできる。

日が、少しだけ高くなっていた。

路地の鉢植えの土が、ゆっくり、乾き始めていた。