番外編 同じ粉、違う風
Summary
九条巡の運命診断所
番外編 同じ粉、違う風
五月の初め。連休明けの月曜の夕方は、東京の路地まで妙に静かになる。
巡は二階の窓を少しだけ開けた。一階の養心堂から、生薬を煎じる甘い匂いが上がってきていた。今日の漢方は当帰のようだった。やや甘く、土の奥のような匂いがする。
机の上には、祖母のノートのうち、まだ写し終えていない章が広げてある。表題に「鳳閣・調舒・禄存・司禄・牽牛・車騎・玉堂・龍高・石門・貫索」と十の星の名が、祖母さくらの細い字で並んでいた。十大主星。巡は、特にその両端に挟まれた「鳳閣」と「龍高」のところで、何度かペンを止めていた。
祖母は、その二つの星に、よく似たような言葉を当てていた。
——どっちも、子どもみたいな星や。
ただし、鳳閣の子と龍高の子は、別の遊び方をする。鳳閣は、同じ砂場で何時間でも砂の山を作り直す。龍高は、砂場を抜け出して、見たことのない路地を一本ずつ覚えていく。
巡はそこまで読み返して、ノートを閉じた。
予約は午後五時。名前は岸田千歳。四十歳。和菓子屋の店主、と問い合わせのフォームには書かれていた。「友人のことで相談したい」とも書かれていた。自分のことではなく、友人のこと、と最初に書いてくる人は、たいてい自分のことを話しに来る。
階段を上がる足音がした。
革靴ではない。低い踵の、底の柔らかい靴。一段ごとの間隔は均等で、迷いがない。けれど、踊り場で一拍だけ止まる。慣れない場所に来た人の、足の止まり方だった。
ノックは、しっかりとしていた。
「どうぞ」
扉が開いた。
入ってきたのは、藍染の作務衣の上に薄手のコートを羽織った女性だった。背は高くない。襟元から覗く首は細い。両手に紙袋を一つずつ提げていて、片方は明らかに自分の鞄、もう片方は白い小さな箱だった。
「岸田千歳と申します」
「九条巡です。お待ちしていました」
千歳は深く頭を下げ、それから白い箱の方を、机の隅にそっと置いた。
「つまらないものですが」
「お気遣い、ありがとうございます」
巡は箱に触れずに礼を言った。中身は、おそらく菓子だった。まだ温度が残っていた。
「お忙しいところ、すみません」
「いえ。どうぞ、おかけください」
千歳は椅子に腰を下ろした。鞄を膝の上に置き、両手をその上で重ねた。指の節は太く、爪はごく短い。右の親指の付け根に、古い火傷の痕があった。和菓子屋、というよりは、長く厨房に立ってきた人の手だった。
「今日は、どのようなご相談で」
「友人のこと、というか」
千歳はそこまで言って、少し笑った。困ったときに笑う癖のある人だった。
「最初に書いた『友人のこと』というのは、たぶん嘘です。自分のことです」
巡は頷いた。
「よく、ありますよ」
「そうですか」
「自分のことを話しに来た、と最初から言える人の方が、少ないです」
千歳の肩から、少しだけ力が抜けた。
「お店をやっています。浅草の路地で、小さな和菓子屋を。父から継いで、十二年になります。看板は『ちとせ』で、私の名前です」
「ご家族の名前を冠したお店ですか」
「そうです。父が、名付けた時から、私に継がせるつもりだったんだと思います。一人っ子ですし。母は早くに亡くなりました」
千歳は、机の隅の白い箱を見た。
「中は、うちの定番の上生菓子です。今日のは、青梅と、薄氷と、それから——百花。三種類です」
「百花、というのは」
「五月の主菓子です。父の代からの意匠で、私で十二年、同じ型で作っています」
その「同じ」という言葉に、わずかに力が入った。
「ご相談は、その同じということに関係がありますか」
千歳は、少し驚いたように顔を上げた。
「……そう、ですね。たぶん、そうです」
彼女は鞄から、薄い手帳を取り出した。表紙には、海外の何かの写真展の半券が挟まれていた。
「同じ修行先に、相沢茉莉という友人がいます。私と同い年で、京都の同じ老舗で、二十代のほとんどを一緒に過ごしました」
茉莉、と口にした瞬間に、千歳の目に、これまでとは違う光が入った。先ほど巡が読んだ草野千穂のページを、巡は思い出しかけたが、すぐに目の前の人へ意識を戻した。
「茉莉は、二十八の時にパリに渡りました。和菓子の修行をした手で、向こうのパティシエに弟子入りして、五年で独立して、今は自分の店を持っています。日本の特集記事にも、何度も出ています」
「お友達のお店は、和菓子のお店ですか」
「いいえ。完全に洋菓子です。マカロンとか、ガトーとか。ただ、和菓子の感性で作る洋菓子、と紹介されることが多いです」
「なるほど」
「茉莉の作るものは、見たことのないものばかりです。素材も、構造も、味の組み合わせも。日本にいた頃から、彼女はそうでした。同じ型で同じ菓子を作る稽古の時も、半分くらいは、勝手に違う形を試していて、よく親方に叱られていました」
千歳は、そこで小さく笑った。
「叱られるのに、本人は楽しそうでした。叱られるたびに、また次の新しいことを思いついてしまう人なんです」
「岸田さんは、その時、どうされていたんですか」
「私は、同じ型で、同じものを、何百個も作っていました」
声は、責めるようでも、卑下するようでもなかった。事実を述べていた。
「不思議なんですけど、私はそれが、いやではなかったんです。むしろ、ずっと同じものを作っていると、毎日、ほんの少しずつ違うことが分かってきて。今日の餡は昨日より水が多いとか、今日の練り切りは指の温度が高いから少し緩いとか。そういう小さな違いの中に、ずっといられました」
「それを、楽しいと思われましたか」
「楽しい、というより——飽きませんでした。私には、それが、いちばん近い言葉です」
巡はうなずいた。
「飽きない、というのは、案外、強い言葉です」
「そうなんでしょうか」
「ええ。たぶん、岸田さんが思っているより」
千歳は、少し戸惑ったような顔をした。それから、また鞄に視線を戻した。
「ご相談というのは、その茉莉のことです。先月、彼女が日本に短い帰国をしました。十二年ぶりに、私の店にも寄ってくれました」
「お会いになって、何かありましたか」
「いいえ、何も。ただ、笑って、お茶を飲んで、昔の話をして帰っていきました。私の店の百花を、二つだけ食べて、『変わらないね、ちとせの百花』と言ってくれました」
千歳は、そこで一度、息を整えた。
「その『変わらないね』という言葉が、頭から離れません」
「褒め言葉、として受け取れなかった」
「分かりません。たぶん、本人は褒めてくれたんだと思います。茉莉は、嘘をつくのが下手な人なので。でも、私は、あの夜から、自分の店の百花を見るたびに、胸が冷たくなるようになりました」
千歳は手帳を閉じた。
「茉莉は、十二年で世界中の見たことのない場所に行きました。私は、十二年、同じ厨房で、同じ型で、同じ菓子を作っています。それは、私が、怖がって、ここに留まっているからではないか、と思うようになりました」
巡は、ノートのページに指を置いた。鳳閣と龍高の名前の上だった。
「茉莉さんと出ていく勇気のなかった自分」
「はい」
「ここに、十二年、留まっている自分」
「はい」
「その二つを、同じ天秤に載せて、軽い方が私だと、岸田さんは思っているんですね」
千歳の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「……そうです。たぶん、ずっと、そう思ってきました」
巡は、机の引き出しから新しい紙を一枚取り出した。
「岸田さんの生年月日と、もしご存知でしたら、相沢さんの生年月日も、教えていただけますか」
「茉莉のも、覚えています。同い年なので。同じ年に、同じ親方のところで、二人で誕生日のお菓子を作ったことがあります」
千歳は二つの日付を、迷わず告げた。
巡は、祖母のノートに挟んだ早見表を出し、二つの命式を、並べて書いた。十干と十二支が、二列に並ぶ。星が、その下に、それぞれ書き加えられていく。
岸田千歳。日座中殿、鳳閣星。月座、司禄星。東に天将星。
相沢茉莉。日座中殿、龍高星。月座、天南星。北に牽牛星。
あまりにも、見えやすい配置だった。けれど、見えやすい配置ほど、言葉を急ぐと浅くなる。それは、千穂の時に学んだことだった。
巡は、しばらく二つの命式を見ていた。
祖母の声が、記憶の底から浮かんできた。
あれは、巡が小学校に上がる前の年だった。京都の家の縁側に、近所の子どもが二人遊びに来ていた。一人は、巡と同い年で、縁側の端で、ずっと折り紙を折り続けていた。同じ鶴を、何羽も。もう一人は、年下で、家の中を走り回っては、庭に出て、また戻ってきて、祖母の薬箪笥の引き出しを片っ端から開けていた。
祖母は、二人を見ながら、巡に小さな声で言った。
「巡ちゃん。あの子らな、どっちも遊んでるねんで」
「うん」
「鶴ばっかり折ってる子は、退屈してるように見えるか」
「うーん。してへんと思う。すごい、楽しそうやもん」
「そや。あの子はな、同じ鶴を折るたびに、ちょっとずつ違う鶴ができるのが、楽しいねん。羽の角度が一ミリ違うとか、そういうことやな」
祖母は、もう一人の方へ目をやった。
「あっちの子は、引き出しを片っ端から開けな、気が済まん子や。中身が同じやと分かっても、もう一回開けて、別の引き出しを開ける。あの子はな、開けたことのない引き出しがあると、それだけで、心がそわそわするねん」
巡は、二人の子どもを見ていた。確かに、二人とも、楽しそうだった。違う遊び方で、同じくらいに。
「巡ちゃん、覚えとき。世の中にはな、同じ場所で違いを見つけるのが上手な子と、違う場所に行って同じやないことを確かめるのが上手な子と、二種類おるんや。どっちも、世界の全部を欲しがってる。ただ、欲しがり方の入口が、違うだけや」
祖母は、煎茶を一口飲んでから、付け足した。
「鳳閣の子と、龍高の子。さくらは、両方好きや」
巡は、目を開けた。
目の前には、千歳が座っていた。指の付け根の火傷の痕を、無意識に親指でなぞっていた。
「岸田さん」
「はい」
「岸田さんと相沢さんの命式は、ちょうど対になっています」
巡は、紙の上の二つの中心の星を、ペンの先で軽く指した。
「岸田さんの真ん中にある星は、鳳閣星といいます。相沢さんの真ん中にある星は、龍高星です。十大主星の中で、ちょうど両端に近いところにあります」
「両端」
「はい。ただ、両端というのは、優劣のある両端ではありません。鳳閣も龍高も、もとを辿ると、どちらも『遊ぶ星』です」
千歳は、目を細めた。
「遊ぶ、ですか」
「ええ。子どものように、無心で何かをする星です。生活のためでも、評価のためでもなく、ただそれが面白くて、やめられない。そういう力です。お二人とも、その力で菓子を作ってこられたはずです」
「……」
「ただ、遊び方が違います」
巡は、紙の上に、二つの言葉を書いた。「同じ場所」と「違う場所」。
「鳳閣の人は、同じ場所で、同じものに、何百回でも触れて、その中の小さな違いを楽しむことができる人です。同じ型で同じ菓子を作っても飽きない、というのは、岸田さんが弱いからでも、怖がっているからでもありません。岸田さんの遊び場が、もともと『同じ』の中にあるからです」
千歳の指が、止まった。
「龍高の人は、逆です。違う場所、まだ自分が触れていない場所、まだ誰もやっていないやり方、そういうものに触れていないと、心がそわそわしてしまう。相沢さんが、十二年で世界中を歩き、和菓子の手で洋菓子に踏み込み、また別の何かを試そうとしている。それは、相沢さんが偉いからでも、強いからでもありません。相沢さんの遊び場が、もともと『違う』の中にあるからです」
「……」
「同じ厨房に十二年いる岸田さんと、世界中を回って自分の店を持った相沢さん。やっていることは、まるで違って見えます。けれど、二人とも、子どものように遊んでいるという意味では、たぶん、同じです」
千歳は、しばらく何も言わなかった。
巡は、急かさなかった。
「私、ずっと——」
千歳の声は、小さかった。
「茉莉が眩しかったんです。私の知らない街の名前を、当たり前のように口にして、私の知らない素材の話をして、私の知らない誰かに師事して。テレビで茉莉が映るたびに、ああ、私は何もしていない、と思いました」
「そうでしょうね」
「でも、私、別に、パリに行きたいわけではなかったんです」
その一言を口にしてから、千歳は自分で驚いたように、唇を結んだ。
「行きたくはなかった。茉莉の話を聞いても、面白そうだとは思っても、自分が行くところを想像すると、胸が苦しくなりました。だから、行きませんでした。それなのに、行かなかった自分を、ずっと、許せなかった気がします」
「行きたくないのに、行かない自分を責めていた」
「はい。今、言われてみるまで、自分でもよく分かっていませんでした」
千歳は、机の上の白い箱を見た。
「私は、この百花を、毎年五月に作るのが、本当に好きなんです。父の代からの意匠で、五枚の花弁の重なり方も、芯の色の置き方も、ほとんど決まっています。決まっているのに、毎年、ほんの少しだけ違うものができる。今年の百花は、去年より少し、白が強い気がします。それが面白くて、五月になるたびに、ああまた百花の月が来た、と思います」
「相沢さんが、その百花を二つだけ食べて、『変わらないね』と言われた」
「はい」
「あの言葉は、たぶん、本当に褒め言葉だったと思いますよ」
千歳は、目を上げた。
「龍高の人にとって、『変わらない』というのは、最も難しいことだからです」
「難しい、ですか」
「相沢さんは、たぶん、変わり続けることでしか、自分を保てない人です。同じ型で同じものを十二年作り続ける、というのが、いちばん遠くにある、いちばん憧れる『他人』の生き方だと思います。だから、岸田さんの百花の前に座って、変わらないね、と言った時の相沢さんは、たぶん、岸田さんを羨んでいました」
「茉莉が、私を……」
「ええ。岸田さんが相沢さんを羨むのと同じくらいに、相沢さんも岸田さんを羨んでいます。鳳閣と龍高は、いつも、互いの背中を見ています。自分の中にないものを、相手の中に見ています」
千歳の目に、涙が滲んだ。図星だったからではない。これまでの十二年、ずっと一方通行だと思い込んでいた感情が、実は二人の間で行き来していた、と知らされたからだった。
「茉莉は、何も言いませんでした」
「龍高の人は、たぶん、そういうことを上手に言葉にできません。新しいものを掴むのは得意でも、すでに自分が持っていないものを、誰かに向かって認めるのは、苦手な人が多いです」
「私も、何も言えませんでした」
「鳳閣の人も、たぶん、そういうことを上手に言葉にできません。すでに目の前にあるものの中で遊ぶのが得意な人は、ここではないどこかへの憧れを、誰かに向かって言葉にすることが、苦手だからです」
巡は、紙の上に書いた二つの言葉、「同じ場所」と「違う場所」の間に、細い線を引いた。
「お二人は、十二年、同じことをしていました」
「同じこと、ですか」
「お互いの中にないものを、お互いの中に見続けてきた、という意味では、同じです」
千歳は、長い息を吐いた。
「私、茉莉に、何かを言うべきなんでしょうか」
「言わなくて大丈夫です」
巡は、首を振った。
「お二人は、たぶん、言葉でやり取りをするのが、いちばん下手な組み合わせです」
「じゃあ、どうすれば」
巡は、少し考えてから、机の上の白い箱を見た。
「岸田さん。一つだけ、お願いがあります」
「はい」
「次に百花を作る時——いつでも構いません、来年の五月でも、その次でも——その時にできた百花を、一つだけでいいので、相沢さんに送ってください」
千歳は、小さく目を見開いた。
「送る、だけですか」
「はい。送る、だけです。手紙はつけても、つけなくてもいいです。説明はいりません。比較もいりません。茉莉さんへ、と書いて、その年の百花を一つ。それだけです」
「相沢は、和菓子の人ではありません。今は」
「だから、いいんです。同じものを作り続けてきた人が、違うものを作り続けてきた人に、その『同じ』の最新の一つを、ただ送る。それは、たぶん、相沢さんが、自分で自分に言葉にできなかったものを、受け取れる形で、岸田さんから渡されることになります」
「茉莉は、それを、どう受け取るんでしょう」
「分かりません」
巡は、正直に言った。
「ただ、岸田さんが、長年溜めていたものを、相手にいちばん通じる形で渡すとしたら、それしか、ないと思います。岸田さんは、十二年、菓子で世界と話してきた人です。言葉ではなく、菓子の方が、岸田さんの本当の声に近いはずです」
千歳は、しばらく黙っていた。
膝の上の鞄の取っ手を、両手で握りしめていた。指の節が、白くなっていた。
「私、茉莉に、ずっと、勝てない人だと思っていました」
「はい」
「でも、勝つとか負けるとかじゃ、なかったんですね」
「ええ。鳳閣の遊び場と、龍高の遊び場は、別の場所にあります。同じ盤の上に置けないから、勝ち負けは、もともとつきません」
「同じ盤の上に置こうとしてきた十二年間、私は、ずっと苦しかったんだと思います」
「たぶん、そうだと思います」
千歳は、長い息を吐いた。
それは、何かを下ろした人の息ではなかった。むしろ、自分の中にずっとあったのに名前のなかったものに、ようやく名前がついた人の息だった。
「九条さん」
「はい」
「百花、開けてもいいですか」
巡は、少し意外な顔をしてから、頷いた。
「ぜひ」
千歳は、白い箱の紐をほどいた。
箱の中には、薄い杉の経木が敷かれ、その上に、三つの上生菓子が並んでいた。青梅は、淡い緑の練り切りに、小さな赤い斑が一つ。薄氷は、半透明の寒天の中に、銀の粒が散っている。百花は、白と淡い紅の花弁が、五枚、わずかに重なって、芯に黄色の点が一つだけ置かれていた。
「これが、今年の百花です」
「綺麗ですね」
「去年より、白が強い気がします」
千歳は、自分の作ったものを、客観的に眺めるような目をしていた。
「来年は、もう少し、紅が強くなるかもしれません。そうしたら、その時の百花を、茉莉に送ります」
「楽しみです」
千歳は、箱の蓋を、そっと閉めた。
「九条さん」
「はい」
「私、ずっと、ここに留まっている自分のことを、何かを諦めた人間だと思っていました」
「はい」
「でも、留まることでしか味わえないものが、あるんですね」
「ええ。それが、岸田さんの遊び場です」
千歳は、ようやく、笑った。困った時の笑いではなく、何かを思い出した時の笑いだった。
「百花の月が、来年もまた来るのが、楽しみです」
彼女が出ていったあと、診断所には、わずかに餡の甘い匂いが残った。机の上の白い箱は、千歳が「お納めください」と言って置いていったので、そのままになっていた。
巡は、しばらくその箱を見ていた。
それから、祖母のノートを開いた。鳳閣と龍高のページに、新しい一行を書き加えた。
「鳳閣と龍高は、互いの背中を見て、ようやく完成する」
インクが、紙に沈むまで、巡はしばらく、ペンを置かずに見ていた。
窓の外では、五月の夕暮れの光が、最後にひとつ強くなって、それから、ゆっくりと薄くなっていった。
路地の向こうで、誰かが小さく笑う声がした。
巡は、机の上の白い箱を、慎重に開けた。
百花が、一つ、こちらを向いていた。
白い花弁が、五枚、重なっていた。同じ型で、十二回、同じ五月に、同じ手で作り続けられたものだった。けれど、よく見ると、その花弁の重なりは、たぶん、去年とも、一昨年とも、ほんの少しずつ違っていた。
その「ほんの少し」の中に、千歳の十二年が、あった。
巡は、その一つを、まだ食べずに、しばらく眺めていた。
路地の上に、夜が降り始めていた。
二週間後、診断所に、葉書が一通届いた。
差出人の欄には、フランスの住所と、相沢茉莉の名前があった。
ただし、本文は、岸田千歳から巡への礼状だった。送り主の住所だけが、フランスに書き換えられていた。葉書の隅に、千歳の小さな字で、こうあった。
「百花、来年の分を、待たずに送りました。茉莉から、長い返事が来ました。私の知らない街の名前と、私の知らない素材の話と、十二年ぶりに、私のことが、書いてありました」
巡は、葉書を、ノートの鳳閣と龍高のページに、しおりのように挟んだ。
窓の外には、また、別の五月の夕暮れが、始まっていた。
(了)