番外編 写しと逸れ

Summary

九条巡の運命診断所

番外編 写しと逸れ — 玉堂と龍高

五月の半ば。雨の上がった夕方。一階の養心堂からは、今日は生姜を煮詰める匂いが上がっていた。少し辛い、土の上のような匂い。

巡は祖母のノートを開いていた。表題は「玉堂星」と「龍高星」。崩し字が、二つの星のあいだに細い線を引いている。

——同じ「学ぶ」でも、入口が逆や。

祖母さくらは、そう書いていた。

玉堂星は、すでに在るものを正確に写す力。流れの上流から下流へ、水を引く知。師がいて、型があって、年代記があって、その筋の上で深まる。

龍高星は、まだ在らぬものを掴みに行く力。流れの外へ歩いて出て、自分の足で井戸を掘る知。師は風景に、型は破るためにあり、年代記は持ち歩かない。

——どっちも知の星や。せやけど玉堂は「継ぐ」ことで根を張る。龍高は「逸れる」ことで根を張る。逆や。

巡はそこで一度ペンを置いた。逆、という字が、紙の上で少しだけ重く感じた。

予約は午後五時半。名前は井波佳乃。三十二歳。茶道教授。問い合わせフォームには「妹のことで相談したい」と書かれていた。

巡は薄く笑った。「妹のこと」と書く人は、たいてい自分のことを話しに来る。


階段の足音は、揃っていた。

一段、一段。間隔が同じ。踊り場でも乱れない。低い踵の、底の柔らかい靴。気配を立てない人の歩き方だった。

ノックも、揃っていた。三回。等間隔。

「どうぞ」

扉が開いた。

入ってきたのは、利休鼠の袷を着た女性だった。髪はうしろで一つにまとめられている。化粧は薄い。襟も帯も、寸分の乱れがない。手には、紫の袱紗で包んだ細長いものを一つだけ持っていた。

「井波佳乃と申します」

「九条巡です。どうぞ、おかけください」

佳乃は深く一礼してから、椅子に腰を下ろした。背筋は伸びているのに、肩には力が入っていない。所作で生きてきた人の体だった。膝の上の袱紗を、両手で静かに整える。

「今日は、妹のことで」

巡は柔らかく頷いた。

「妹さんの、どんなことでしょう」

佳乃は一度だけ、視線を膝の袱紗に落とした。

「妹は、澪と申します。二十八歳です。三年前にロンドンに渡りまして、向こうで現代アートと茶を組み合わせたような、その──活動をしております」

「活動」

「お点前を、現代アートのインスタレーションのなかでなさるとか。茶碗を、陶芸家ではなく彫刻家に頼むとか。お軸の代わりに、映像を流すとか」

佳乃の口調は、批判ではなかった。説明だった。だが、説明であろうと努めている分、底に、まだ言葉になっていない感情が沈んでいた。

「父は三年前に亡くなりました。井波家は、表千家の流れで、祖父の代から続いている教室です。父が亡くなったあと、教室は私が継ぎました。妹は、四十九日が済むと『行ってきます』と言って、ロンドンへ」

「お父様が亡くなる前から、決めていらしたのですか」

「いえ。父が亡くなってから、急に。父は、最後まで澪に『戻っておいで』と言っていました」

佳乃は、袱紗の結び目を、わずかに指でなぞった。

「私は、父の言う通りに、家にいました。十八のときから内弟子として父について、二十のときから門下を持ち、三十で師範を継ぎました。澪は、十六で家を出て、美大に進んで、卒業してロンドンへ。同じ家に育って、同じ父に教わったはずなのに──ちがうんです」

「ちがう」

「私は、父の手を写しています。今でも。袱紗のさばき方も、棗の持ち方も、父の指の角度を覚えていて、それをそのまま使っています。父が遺した稽古帳を、毎朝、写しています。十二年分、ぜんぶ。澪は、それを『標本箱』と呼びました」

巡は、何も言わなかった。

「澪は、父の点前をほとんど覚えていません。本人がそう言うんです。『お姉ちゃんが全部覚えてくれてるから、私は別のところを覚えていい』と。──三年前に、そう言って出ていきました」

佳乃の声に、初めて、ほんの少しだけ、揺れがあった。

「先月、澪から連絡がきまして。来年、東京で個展をするそうです。タイトルが──『写さない茶』」

巡は、そっと頷いた。

「それは、お姉さんへの言葉のように、聞こえますか」

佳乃は、答える前に、一度だけ、目を伏せた。

「分かりません。澪は、そういう子ではないんです。姉に当てつけるような子ではない。ただ、自分の見つけたものに、まっすぐ名前をつける子で。だから、たぶん、私への当てつけではない。──ないんですけれど」

声が、そこで止まった。

止まったあとに、続きがあった。

「ないんですけれど、私は、それを見て、二日ほど、稽古帳を写せませんでした」


巡は、小さなカードを二枚、佳乃に渡した。

「お二人の、お名前と生年月日を、こちらに」

佳乃は袱紗から細い万年筆を取り出して、ゆっくりと書いた。

『井波佳乃 1994年3月14日』

『井波澪 1997年9月8日』

巡は二枚を受け取り、机の上で命式を組み立てていく。干支が並び、星が配置される。

数分後、巡の手が止まった。

【姉:井波佳乃】
生年月日:1994年3月14日
日干:辛(金の陰・宝石)
十大主星:中=玉堂星 南=玉堂星 東=牽牛星 北=司禄星 西=禄存星
天中殺:戌亥天中殺
五行:金63 土72 水48 木34 火12
総エネルギー:229
 
【妹:井波澪】
生年月日:1997年9月8日
日干:辛(金の陰・宝石)
十大主星:中=龍高星 南=龍高星 東=調舒星 北=車騎星 西=貫索星
天中殺:戌亥天中殺
五行:金61 水57 木42 火36 土29
総エネルギー:225

巡は二つの命式を、しばらくのあいだ、ただ見ていた。

日干が、同じ辛金。同じ宝石の金。磨かれて光る、繊細で、傷のつきやすい金。

天中殺も、同じ戌亥。家と精神の天中殺。父の早逝が、二人の戌亥に同じ翳を落としている。

総エネルギーも、ほとんど同じ。二二九と二二五。

そして──中央と南の主星が、玉堂と龍高で、ちょうど反転していた。

巡は、机の上で、二枚をそっと並べ替えた。鏡のように。

「鏡像」という言葉が、頭の隅に浮かんだ。


「井波さん」

佳乃が顔を上げた。

「お父様の稽古帳を、毎朝、写していらっしゃる」

「はい」

「何年、続けていらっしゃいますか」

「父が亡くなってから三年。その前、内弟子だった頃も入れると、十四年です」

巡は、静かに頷いた。

「その『写す』というお仕事は、井波さんの命式と、ぴったり合っています」

佳乃の眉が、わずかに動いた。

「合って、いますか」

「井波さんの中心には、玉堂星があります。南にも、玉堂星。同じ星が二つ。これは『学ぶ星』のなかでも、流れを継ぐ側の星です」

巡はノートを開いて、玉堂と龍高の頁を、佳乃に見えるように向けた。

「玉堂星は、上流から下流へ、水を引く知の星です。すでに在るものを、正確に写す。師がいて、型があって、年代記がある。そのうえに、自分の指を重ねていく。井波さんが毎朝、お父様の稽古帳を写していらっしゃるのは──玉堂星にとって、根を張る行為そのものです」

「根を、張る」

「玉堂星の人は、写すことで深まります。同じ型を、十年、二十年、写すことが、退屈ではなく、滋養になる。むしろ、写す相手がいないと、根を張る場所を失います」

佳乃の手が、袱紗の上で、少しだけ止まった。

「では──澪は」

「澪さんの中心と南には、龍高星があります」

巡は、もう一枚を、佳乃の側に滑らせた。

「龍高星は、同じ『学ぶ星』ですが、玉堂とは入口が逆です。すでに在るものを写すのではなく、まだ在らぬものを掴みに行く力です。型を学ぶよりも、型を一度離れて、自分の足で井戸を掘る。──祖母は、ここに、こう書いていました」

巡は、ノートを少しだけ開いて、声に出して読んだ。

「『玉堂は継ぐことで根を張る。龍高は逸れることで根を張る』」

佳乃は、長いあいだ、その一行を見ていた。

「逸れる、ことで」

「はい」

「だから澪は──ロンドンに」

「龍高星は、見たことのない景色のなかに置かれて、はじめて深く吸い込みます。型を写すことが滋養にならず、型を一度ほどくことが滋養になる。井波さんと、まったく逆の構造です」

佳乃の目が、初めて、妹の名前のうえに落ち着いた。怒りでも、戸惑いでもない。何かを納得しようとしている目だった。

「では、私が父の稽古帳を写しているのと、澪が『写さない茶』というタイトルをつけたのは──」

「同じことを、逆の入口からなさっているのだと思います」

巡は、静かに言った。

「お二人とも、同じ辛金です。磨かれて光る、宝石の金。同じ天中殺。同じ総エネルギー。──ただ、玉堂と龍高の位置だけが、ちょうど反転している。鏡のように」

佳乃は、二枚の命式を、もう一度見た。中央の星が、ちょうど互い違いに並んでいた。

「澪さんの『写さない茶』は、お姉さんへの当てつけではありません。あれは、龍高星の人にとって、もっとも切実な根の張り方です。写してしまえば、龍高は枯れる。逸れることで、ようやく自分の井戸を掘れる」

佳乃の唇が、わずかに動いた。

「では──私が稽古帳を写しているのは」

「玉堂星の人にとって、もっとも切実な根の張り方です。逸れてしまえば、玉堂は枯れる。写すことで、ようやく自分の井戸を掘れる」

二人のあいだに、しばらく沈黙があった。

佳乃は、膝の上の袱紗を、両手で静かに整えた。整えながら、その手元を、自分でじっと見ていた。

「先生。一つだけ、伺ってもよろしいですか」

「どうぞ」

「私は、ずっと──澪のことを、自由に育った子だと思っていました。私は型に縛られて、澪は型から逃げた。私は『継ぐ役』で、澪は『逃げる役』。そう思っていました」

佳乃は、目を上げた。

「でも、ちがうのですか」

「ちがいます」

巡は、はっきりと言った。

「井波さんは、縛られているのではありません。井波さんの根は、お父様の稽古帳のうえに張られています。縛られている人の根は、そんなに深くなりません。澪さんも、逃げているのではありません。逃げている人は、ロンドンで三年も茶を続けません。茶碗の作家を、彫刻家に頼みません。逸れることで、自分の根を、井戸の底まで下ろしているのです」

佳乃の目に、うっすらと、何かが浮かんだ。

「では、澪は──私の写しを」

「澪さんは、お姉さんが写してくださることに、たぶん──助けられています」

巡は、慎重に、言葉を置いた。

「お姉さんが家で型を継いでくださっているから、澪さんは、安心して逸れられる。型がどこかに保たれているという確信がなければ、龍高星は、ただ吹かれる凧になります。澪さんが『お姉ちゃんが全部覚えてくれてるから、私は別のところを覚えていい』とおっしゃったのは、当てつけでも甘えでもなく──龍高星の人の、根の張り方の宣言です」

佳乃の指が、袱紗の上で、ほんの一瞬、震えた。

「では、私も」

「井波さんも、たぶん、澪さんに助けられています」

佳乃は、顔を上げなかった。

「澪さんが家を出て、別のところに井戸を掘ってくださっているから、井波さんは、安心して写し続けられる。もし、井波さんがお一人で、家のすべてを担うことになっていたら──玉堂星は、写すだけでは支えきれない重さに、潰れていたかもしれません」

佳乃の指が、袱紗の結び目に触れた。指先がわずかに白くなった。

「先生」

「はい」

「私は、二日、稽古帳を写せなかったとき──澪に怒っていたのではないんです。たぶん」

「はい」

「澪が、私の知らない井戸を、もう掘ってしまっていることに──置いていかれたような気持ちが」

佳乃の声は、小さかった。

「あったんだと思います。でも、それは」

佳乃は、そこで一度、息を吸った。

「それは、置いていかれたのではなく、別の方へ伸びてくれたのだと、今、思います」

巡は、何も言わなかった。

ただ、ノートの「玉堂」と「龍高」の頁を、もう一度、佳乃のほうへ少し向けた。


「先生」

帰り際、扉の前で、佳乃が振り返った。

「澪の個展に、行こうと思います」

「はい」

「行って、写そうと思います。妹の点前を。──たぶん、写したところで、私の点前にはならないのですが」

佳乃は、少しだけ笑った。困ったときの笑いではなかった。

「写しても、私の点前にはなりません。でも、写すのが、私の根の張り方なので。妹の井戸を、私の指で、一度、なぞってみたいんです」

巡は、静かに頷いた。

「澪さんも、たぶん、それを待っていらっしゃいます」

佳乃は、もう一度、深く一礼した。所作は来たときと同じく、寸分の乱れもなかった。けれど、その一礼の最後に、わずかな間があった。間の長さが、来たときより、ほんの少しだけ、自由になっていた。

階段を降りる足音が、来たときよりも、軽かった。


扉が閉まった後、巡は机に戻った。

二枚の命式を、もう一度、鏡のように並べた。

中央の玉堂と龍高。同じ辛金。同じ戌亥天中殺。同じ二二九と二二五。

巡は、祖母のノートに、一行を書き加えた。

「玉堂と龍高は、対立ではなく、対の星。継ぐ者がいるから、逸れる者は安心して逸れる。逸れる者がいるから、継ぐ者は安心して写し続けられる」

万年筆を置いた。

窓の外、雨上がりの空に、星が一つ、二つと出始めていた。継ぐ星と、逸れる星。並んで、同じ高さに光っていた。