磁石の極

 午後二時の予約は、「桐原・連れ一人」となっていた。

 巡は予約表を見て、少しだけ首を傾げた。これまで連れのある相談者はいなかった。診断は一人で受けるものだ。ただ、断る理由もなかった。

 階段を上がる足音が二組聞こえた。一つは少し速い。もう一つはゆっくりだが、片方がもう片方を待っているようではなかった。それぞれの速さで、同じ場所に向かう足音だった。

「どうぞ」

 扉が開いた。

 先に入ってきたのは小柄な女性だった。四十八、九歳だろうか。髪を後ろでひとつに束ね、クリーム色のシャツに薄い灰色のカーディガンを羽織っている。清潔な印象だった。目の下にうっすらとクマがある。笑うと目が細くなる人だと分かる顔立ちだった。

「桐原です。予約してた者です」

 声は明るく、少し早口だった。

 後ろからもう一人が入ってきた。桐原より少し背が高い。紺のシャツを袖まくりして着ている。髪は肩の少し上で切り揃えられていた。表情は少ない。不機嫌というわけではなく、ただ静かな人だという感じだった。

「深沢です」

 声は低く、短かった。

 巡は二人に椅子を勧めた。

 桐原が先に深沢の椅子を引き、深沢が座るのを確かめてから、自分も座った。何度もそうしてきた手つきだった。


「今日は、どのようなご相談でしょう」

 巡が問うと、桐原はすぐに口を開いた。

「私たち、八年一緒に暮らしてます」

「はい」

「パートナーです」

 深沢は何も言わなかった。否定もしなかった。ただ桐原の方を一度だけ見て、また視線を戻した。

「それで、最近、うまくいかないとかじゃないんです。喧嘩もしないし、意見が合わないこともあまりない。ただ──」

 桐原はそこで一度言葉を切った。深沢の方を見た。深沢は何も言わなかった。桐原はまた巡に向き直った。

「離れられないんです。離れた方がいいのかもしれないって思う時があるのに、離れられない」

「離れたいと思ったことはありますか」

 桐原は少し考えてから言った。

「思います。周期的に。三ヶ月に一度くらい、関係を終わらせた方がお互いのためかもしれないって考える。でも、その度に、まふゆがいないと自分が何もできなくなってるって気づいて、それが怖くて」

「怖い」

「はい。一人で決められなくなってる。小さなことも。夕飯を何にするか、週末にどこに行くか。全部、まふゆに聞かないと決められない。聞くこと自体は悪いことじゃないと思うんですけど、聞かないと決められないことが、増えてる」

 桐原の膝の上で、指が組まれ直された。

「三ヶ月前に母が亡くなって──」

 声が少し変わった。

「葬儀の時も、ずっとまふゆが隣にいた。当然といえば当然なんです。当然なんですけど」

 桐原は一度言葉を切った。

「後で気づいたんです。母の死を、誰にも話してないって。まふゆ以外の誰にも。友達にも、姉にも。最初にかける電話がまふゆで、二番目もまふゆで、三番目もまふゆだった」

 巡は深沢の方を見た。深沢は桐原の言葉を聞いていた。表情は変わらなかった。ただ、膝の上の手が、自分のシャツの裾を少しだけ握っていた。


 巡は二人の生年月日を聞いた。

 桐原陽子。一九七七年六月十五日。深沢真冬。一九八二年十一月二十五日。

 筆先が紙の上を進む。十干、十二支。星の配置。五行の配分。

 桐原の命式が先に見えた。日干は癸水。だが、周囲は火に満ちていた。年柱も月柱も火。生まれた季節も火の極み。五行の中で火が圧倒的だ。水は、端に追いやられていた。

 深沢の命式は逆だった。日干は壬水。亥も水、子も水。水が全体の過半を占める。火は──ほとんどなかった。

 二枚の紙を机の上に並べた。

 一方で火が最も強く、水が最も弱い。もう一方で水が最も強く、火が最も弱い。巡は自分の指が止まっていることに気づいた。


「桐原さんは、周囲を動かす力が強い方です。人を巻き込み、場を明るくし、物事を前に進める。ご自身では当たり前のことだと思っていらっしゃるかもしれませんが、自然にそうなる力を持って生まれている」

 桐原は少し驚いた顔をした。

「言われます。動きすぎだとか」

「動くことは、悪いことではありません。ただ、火が強い方は、自分を止めることが苦手になる傾向があります。安静にする、何もしない時間を作る、そういうことが」

「苦手です」

 即答だった。巡は頷いた。

「深沢さんは、周囲を受け止める力が強い方です。落ち着きがあり、深く考え、人の動きに合わせて静かに進む。水のように、下に下に流れていく」

 深沢は小さく頷いた。

「水が強い方は、自分から動き出すことが苦手になる傾向があります。始める、飛び込む、自分の判断で踏み出す」

 深沢の頷きが止まった。


 巡は二枚の命式紙の間に、指を置いた。

「この二つを並べると、一つの形が見えます。桐原さんに一番足りないものを、深沢さんが一番多く持っている。深沢さんに一番足りないものを、桐原さんが一番多く持っている」

 二人は黙って聞いていた。

「出会った時、お二人は自然に引き合ったと思います。桐原さんには自分を止めてくれる人が必要だった。深沢さんには自分を動かしてくれる人が必要だった。磁石のように、近づくと自然にくっつく。それは──」

「はい。最初は、ちょうどよかったんです」

 桐原が言った。

「私が走りすぎると、まふゆが止めてくれる。まふゆが立ち止まってると、私が引っ張る。バランスが取れてるって思ってた。八年間ずっと」

「今は」

 桐原の目が少し揺れた。

「今は、バランスじゃない気がする。共依存ってやつなのかな。まふゆがいないと動けないし、まふゆも私がいないと決められない。お母さんが亡くなった時もそうだった。まふゆが全部やってくれた。葬儀の手配も、親戚の対応も。──でも、まふゆが仕事に行った日、私、キッチンに立って何もできなかった。お茶を入れようとして、お茶を入れられなかった。自分でお茶を入れたことがないわけじゃないのに」

 桐原は深沢を見た。深沢は桐原を見ていなかった。自分の手を見ていた。


 巡は深沢の方を見た。

「深沢さんは、今の話を聞いてどう思いましたか」

 深沢は少し間を置いてから、口を開いた。

「同じことを、考えてました」

 声は静かだった。

「陽子の母さんが亡くなった時、私が全部やった。葬儀の手配も、親戚の対応も。陽子が動けなかったから──いや、違う。陽子が動く前に、私がやってた」

 深沢は一度言葉を切った。

「普段もそうです。陽子が何か始めようとすると、私が先に準備してる。陽子が何か決めようとすると、私が先に考えてる。陽子のためって思ってた。でも」

 深沢の声が、少しだけ変わった。低い声が、さらに下がった。

「自分が何をしたいのか、分からなくなってる。陽子の動きの中にしか、自分がいない。自分から何かを始めた記憶がない。いつの間にか、陽子の人生を動かすことが自分の人生になってた」

 部屋が静かになった。

 窓の外で、風が通り抜けた。初夏の風だった。湿り気を含んで、部屋の空気を少しだけ動かした。


 巡は二枚の命式紙を見ていた。間を開けて並んだまま。

 説明は見えていた。二人の構造は磁石だ。一方が引いて、一方が押す。近づくとくっつく。くっついている間は安定する。だが、くっついたままでは、どちらも自分では動けない。

 「離れた方がいい」とは言えない。離れる必要があるかどうかは、本人しか決められない。磁石の力自体は悪くない。自然に引き合うことは、人間関係のうちで最も自然なものの一つだ。

「このままでもいい」とも言えない。今のままでは、二人とも少しずつ削られている。補い合うことが、自分を削ることになっている。

 巡は万年筆を置いた。


「お二人に、一つお願いがあります」

 桐原も深沢も、巡を見た。

「三週間後、もう一度来てください。ただし──別々に」

 桐原が目を見開いた。

「別々」

「はい。桐原さんは桐原さんだけで。深沢さんは深沢さんだけで」

 桐原は深沢を見た。深沢は桐原を見なかった。巡を見ていた。

「次に来るまでの三週間、一人でできる時間を作ってください。離れて暮らす必要はありません。ただ、一人で何かを決める時間を、少しだけ」

「何か、というのは」

「なんでも構いません。桐原さんは、自分で自分を止める練習です。一人で、何も始めない午後を一つ作る。深沢さんは、自分で自分を動かす練習です。一人で、何か一つ始める」

 深沢が口を開きかけた。言葉にならなかった。もう一度、口を開いた。

「一人で、始める。久しぶりです」

 声は静かだったが、少し震えていた。

 巡は頷いた。

「桐原さんの中にも水はあります。少しだけですが。深沢さんの中にも火はあります。少しだけですが。その少しだけを、使ってみてください」


 桐原が席を立った。深沢も続いた。

 扉の前で、桐原が振り返った。

「磁石の極って、さっき言いましたよね」

「はい」

「磁石は、一度離すと、またくっつくんでしょうか」

 巡は少し考えてから答えた。

「磁石の力はなくなりません。ただ、一人で立てる時間があると、くっついている時と離れている時の両方ができる。どちらも選べるようになります」

 桐原は頷いた。

 深沢は何も言わなかった。ただ、扉を出る時、背中が少しだけ伸びているように見えた。あるいは、見えただけかもしれなかった。


 二人が降りていく足音が聞こえなくなってから、巡は机の上の二枚の命式紙を見た。

 間を開けて並んだまま。くっついてもいない。離れてもいない。

 祖母の言葉が浮かんだ。「二人でいるとちょうどええのは、ええことやねん。でも、磁石に頼らんでも、自分で足りるようにならなあかん」

 巡は二枚の紙を引き出しにしまった。重ねなかった。間を保ったまま。

 窓の外で、初夏の光が路地に落ちていた。蝉の声が一台、聞こえた。