正しさの刃
持ってきたのは、枯れた観葉植物だった。
鉢は陶器で、底に「 HAPPY BIRTHDAY 」と金文字が書いてある。一度は祝われた鉢だ。でも今は、土が白く乾いて、茎が黒く変色している。
美咲は一階のカウンターで、その鉢を受け取った。持ってきた女は、鉢を渡す時に少しだけ躊躇した。手放す瞬間に、指先が鉢の縁をなぞった。何年も水をやっていた手が、最後に触れるような動作だった。
「予約のお時間ですか」
巡が階段を下りてきた。
「はい。二時の……佐伯です」
佐伯鞠枝。三十七歳。黒いジャケットに、グレーのタートルネック。髪は肩の上で切り揃えられている。メイクはきっちりしているが、口紅の色が少しだけ右にずれている。慌てて塗ったのか、あるいは塗り直す時間がなかったのか。
鞠枝は鉢をカウンターに置いたまま、二階へ上がろうとした。そして、一度だけ振り返った。
「それ、捨てるなら、捨てないでください」
「はい」
美咲は鉢を見た。枯れた茎の根元に、小さな新しい芽が一つ、緑色の点として残っていた。
診断室に入ると、鞠枝は鞄から手帳を取り出した。手帳の端がぼろぼろになっている。何年も使っているか、何度も開いて閉じたか。
「妹のことです。妹が、実家に帰ってこなくなりました」
鞠枝の声は、報告だった。感情を含まない、事実の伝達。会社で会議に出す資料を読むような声。
「きっかけは」
「三ヶ月前の母の誕生日です」
鞠枝は手帳を開いた。日付の書き込みが、細かく並んでいる。
「母の七十三歳の誕生日に、家族で食事をする予定でした。私は席を予約して、コースも決めて、母の好きな煮魚が出る店にしました。三日前に妹に連絡して、時間と場所を伝えました」
巡は頷いた。
「そうしたら、妹が、一人でケーキを持ってきたんです」
鞠枝の声が、少しだけ硬くなった。
「私が予約した店に、私がコースを決めたのに。一人でケーキを持ってきて、『お母さん、お誕生日おめでとう。これ、私が作ったの』って。スポンジのケーキです。デコレーションも何もない、ただのスポンジ。でも、母が、すごく喜んだんです」
鞠枝は手帳を見つめた。
「母がね、妹のケーキを一口食べて、『沙織、おいしい』って言った。それだけで、私は、何も言えなくなりました。店のことも、コースのことも、煮魚のことも、全部どうでもよくなった。母が妹のケーキを食べて笑っているのが、全部正しかった」
美咲は、鞠枝の手帳を見ていた。開いているページに、子供の落書きがあった。クレヨンで描いた花と、歪んだ文字。「おねえちゃん」と読めた。
「それからです。妹が、私の前で笑わなくなったのは」
鞠枝は手帳を閉じた。
「誕生日の後、私が言ってしまったんです。『いきなりケーキ持ってくるのは、迷惑だって分からないの』って。店に予約があるのに、勝手に別のものを持ってくるのは失礼だと。妹は何も言いませんでした。ただ、『うん』って。それきり、連絡が減りました。帰省もしなくなりました」
鞠枝の指が、手帳の角を折った。
「私、間違ってますか」
巡は、ゆっくりと尋ねた。
「お二人の生年月日を教えていただけますか」
鞠枝は手帳の奥から、一枚の紙を取り出した。妹の生年月日も書いてあった。
佐伯鞠枝。1989年4月8日。 佐伯沙織。1994年4月10日。
妹の字ではない。鞠枝が書いた。妹の名前だけ、少し丸みを帯びた字で。自分の名前より丁寧に書いたように見えた。
巡は暦を開いた。二つの命式を追う指が、紙の上を滑る。
鞠枝の命式は、すぐに見えた。戊戌の日。己巳・戊辰・戊戌。三柱に土。土の上に土を積み、その上にまた土を積んだ構造。
そして、貫索星が二つあった。壁を作る星だ。自分と相手を区切る。境界を作って守る。正しさで線を引く。その星が二つ、鞠枝の命式に並んでいる。内と外を分ける星が一つ、道を引く責任の星が一つ。壁の中に一つだけ、言葉を通す星。
妹の命式は、対照的だった。丙寅の日。甲戌・戊辰・丙寅。
鳳閣星が二つあった。表現の星だ。自分を外に出し、見せることで世界とつながる。輝きで繋がる。その星が二つ、妹の命式に並んでいる。型にはまらない好奇心が一つ、意味を見出す知恵が一つ。そして、一つだけ、受け取る星があった。
そして、二人の間に五行の関係が見えた。妹は丙火。姉は戊土。火生土。妹の火が姉の土を育てる。
巡は、一旦手を止めた。
この関係は、大樹の時とは逆だった。大樹は与える側が倒れた。今回は、輝く側が輝くほど、守る側の壁が厚くなる。
「佐伯さんの命式を見ると、壁の星が強いですね」
巡は言った。
「壁」
「貫索星と言います。壁を作る星です。自分と相手を区切る。境界を作って、守る。正しさで線を引く。線の内側は守るべきもの。線の外側は警戒すべきもの」
鞠枝は黙って聞いていた。
「ご主人……いえ、ご実家を継がれたのですか」
「はい。父が亡くなって、母が一人になったので。私が実家に残りました」
「妹さんは」
「妹は高校を卒業して、すぐに出ました。東京へ。デザインの仕事をしています」
「デザイン」
「はい。何をするのかよく分からないんですけど。ウェブの、何か。自分で絵も描くし、写真も撮るし。昔から、そういう子でした。私が予定を決めても、妹はいつも別のことをしたがって。私が右と言えば左。私が決めた店には別のものを持ってくる」
鞠枝の言葉に、怒りではなかった。疲れがあった。
「沙織は、悪い子じゃないんです。むしろ、優しいし、明るいし。でも、私が一番よく分かっているはずなのに、一番分からないんです。あの子が何を考えているのか」
巡は、もう一度、二つの命式を並べた。
「少し、佐伯さんの見えている世界の話をしてもいいですか」
鞠枝が瞬きをした。
「佐伯さんは、世界を『正しいかどうか』で見る人です。貫索星が強いから。外に出るものも、自分で動かすものも、全部、正しさの基準で測る」
鞠枝は頷いた。当たっている、という顔だった。
「だからこそ、実家を継がれたのだと思います。内と外を分ける星もあります。家族は内、外は外。その境界を守ることが、佐伯さんの役割だと思えたのではないでしょうか」
「……はい」
「妹さんが高校を卒業して出て行った時も、『この子は大丈夫なのか』と思いませんでしたか」
鞠枝の目が揺れた。
「思いました。東京で、一人で。デザインなんて、食べれるのかなって」
「それは心配ですよね」
「はい」
「でも、その心配は、妹さんのためだけではなかったと思います。佐伯さん自身の境界線から出ていくものに対する、壁の反応でもあったのではないでしょうか」
鞠枝は、答えなかった。手帳の角を、もう一度折った。
巡は、妹の命式の方へ指を移した。
「妹さんの命式を見ると、佐伯さんとは全く違う世界が見えます」
鞠枝が、妹の命式を見た。
「妹さんは、佐伯さんとは全く違う星を持っています。鳳閣星と言います。表現の星。自分を外に出し、見せることで世界とつながる人です」
「表現」
「はい。正しさではなく、届くかどうか。壁を作るのではなく、輝きで繋がる。そういう星です」
鞠枝は、手帳の落書きを見ていた。「おねえちゃん」の文字。
「だから妹さんは、ケーキを持ってきたのだと思います。佐伯さんの予約されたコースを否定したかったのではない。母さんに、自分が作ったものを届けたかった。正しいかどうかではなく、届くかどうか。それが妹さんの世界です」
鞠枝の唇が、わずかに動いた。
「でも、私は」
「佐伯さんには、妹さんの行動が『予約を無視する行為』に見えた。正しさの基準で見ると、そう見えます。でも、妹さんには『母さんに届ける行為』に見えていた。見えている世界が違うのです」
巡は、一度言葉を切った。
窓の外で、風が路地の看板を揺らした。一階からミチさんの声がした。「美咲ちゃん、お茶碗どこやった?」「左の棚です!」
日常の音が、診断室の静けさを少しだけ緩めた。
「佐伯さん」
「はい」
「一つ、確認させてください。妹さんが帰らなくなったのは、誕生日の言葉が原因ですか」
鞠枝は、少し考えた。
「……それが直接の原因だと思います。でも、言われてみれば、前から少しずつ。私が何か言うたびに、妹が離れていった気がします」
「何を言ったのですか」
「色々です。就職の時も、東京に行くならもっとちゃんとした会社にしなさいって。あの子が選んだ会社、零細で、よく分からないデザイン事務所で。『ちゃんと』って言いました。安定してるところにしなさいって」
「他には」
鞠枝は、手帳をめくった。
「母の誕生日の前にもありました。沙織が、母に手編みのマフラーを送ったんです。冬のことです。私は百貨店で選んだカシミアのストールを贈ったのに、母が、マフラーを嬉しそうに巻いて。『沙織が編んでくれたんよ』って。それを見て、私は、また言ってしまったんです。『マフラーなら、もっとちゃんとした毛糸を使えばいいのに』って」
鞠枝の声が、小さくなった。
「沙織は、何も言いませんでした。ただ、マフラーを母の首に巻いて、『お母さん、似合う?』って聞いた。母が『似合う似合う』って笑った。私はその隣にいたのに、二人の間に入れなかった」
巡は、二つの命式の間に指を置いた。
「佐伯さんと妹さんの間に、五行の関係があります」
鞠枝が顔を上げた。
「妹さんは丙火。太陽の火です。佐伯さんは戊土。大地の土です。火は土を育てます。火生土と言います」
「妹が、私を」
「はい。妹さんが輝けば輝くほど、佐伯さんの土が育つ。妹さんが表現すればするほど、佐伯さんの壁が厚くなる」
鞠枝の表情が、歪んだ。
「それは、妹が悪いということですか」
「いいえ。誰も悪くないのです。ただ、そういう関係なのです」
巡は、少し間を置いた。
「妹さんがデザインの仕事をして、外で輝いているのを見て、どう思いますか」
「……心配です」
「心配」
「あの子、ちゃんと食べてるのかなって。ちゃんと暮らしているのかなって。知らない人のために写真を撮ったり、訳の分からない絵を描いたりして。ちゃんとした仕事って、そういうものじゃないでしょう、って」
鞠枝が言い終わると、自分の言葉に少し驚いたようだった。
「ごめんなさい。また、やってる。ちゃんと、って言ってる」
巡は静かに言った。
「佐伯さんの貫索星は、外からのものを防ぐ壁でもありますが、中から出ていくものも止める壁でもあります。妹さんが自分を表現しようとするたびに、『それは危ない』『ちゃんとして』と壁を立てる。それは否定ではありません。守ろうとしているのです」
「守ってるんです。私、ずっと」
「はい。分かります」
「母が一人になった時、私が残らなきゃって。父の代から続く歯科医院も、母の面倒も、地域の付き合いも。全部、私が引き受けた。妹には何も言わなかった。『沙織は自由に生きていい』って思ってた。でも」
鞠枝の声が詰まった。
「でも、自由に生きてるところを見るたびに、心配になって。口が出てしまう。出した後に、また後悔する。あの子は何も悪くないのに、私がまた壁を作ってしまう」
美咲は、二人の命式を横から見ていた。
妹の命式には、一つだけ受け取る星があった。言葉を跳ね返すのではなく、受け止める星。
そして巡が言った。
「佐伯さん。妹さんの命式には、受け取る星があります。妹さんは、佐伯さんの言葉を、受け取る人です」
鞠枝が固まった。
「受け取る」
「はい。跳ね返すのではなく、受け止める。佐伯さんが『ちゃんとして』と言った時、妹さんは、『お姉ちゃんがそう言うなら、私が間違ってるのかな』と受け取る。だから、反論しない。『うん』としか言わない。反論できないのではなく、受け取ってしまったから、何も言えなくなる」
鞠枝の手帳が、膝から滑り落ちた。拾わなかった。
「だから、帰らなくなった。帰ると、また言葉を受け取ってしまう。お姉ちゃんの正しさを、また受け取ってしまう。受け取るたびに、自分の表現が間違っているのかと迷う。迷うと、輝けない。鳳閣星は、壁の前で輝けないのです」
鞠枝の目から、涙がこぼれた。
驚くほど静かだった。嗚咽もなかった。ただ、涙が一筋、頬を伝って落ちた。
「私、沙織に謝ったことがないんです」
鞠枝の声は、初めて報告の声じゃなくなった。
「謝らなきゃって思ってた。でも、謝るとしたら、何を謝ればいいか分からない。予約した店にケーキを持ってきたことを謝る? それは沙織でしょって言われそうで。ちゃんとした毛糸を使えって言ったことを謝る? それは正しいことだったから」
「正しかったから、謝れない」
「はい」
巡は頷いた。
「正しかったことは、謝らなくていいのです」
「でも」
鞠枝が涙を拭った。
「でも、結果として、沙織は帰ってこなくなった。正しかったことが、あの子を遠ざけた。それは、どうすればいいんですか」
巡は、鞠枝の命式の中に一つだけ目を付けた。壁の中に残された、言葉を通す星。
「佐伯さんは、妹さんに何かを渡したことはありますか」
「渡す」
「物ではなくて。言葉でも、時間でも。佐伯さんが、佐伯さん自身のことを、妹さんに渡したことは」
鞠枝は、黙った。
「妹さんのために心配したことはあるでしょう。でも、佐伯さん自身が、妹さんに何かをお願いしたことはありますか」
鞠枝の手が、膝の上で止まった。
「……ないと思います」
「ない」
「私は、長女だから。頼るのは、妹にしてはいけないと思ってた。妹は自由に生きるべきで、私が頼ったら、あの子の邪魔になるって」
「でも、妹さんの受け取る星は、誰かの何かを受け取ることで、自分の居場所を確認する星です。佐伯さんが何も渡さないと、妹さんは、お姉ちゃんから受け取るものがないことになります」
鞠枝の目が、大きく開いた。
「受け取るものがない」
「はい。お姉ちゃんはいつまでも壁を作って守ってくれる。でも、壁の外にいる私には、何も渡してくれない。正しい指示は来るけれど、お姉ちゃん自身は来ない。そう見えていたのではないでしょうか」
鞠枝は、両手で顔を覆った。
美咲は、胸の奥が痛むのを感じた。
頼られない優しさ。正しい言葉だけが飛んでくる関係。指示は愛だけど、指示しかないと、壁になる。
鞠枝が顔を上げた時、目は赤かったが、声は落ち着いていた。
「先生。沙織の命式で、もう一つ教えてください。あの子は、私のこと、どう思ってるんでしょうか」
巡は、一瞬だけ迷った。
そして、妹の命式をもう一度見た。鳳閣星の奥に、姉と同じ貫索星が眠っている。
「妹さんの家庭に向ける顔は、鳳閣星です。表現の星。家に帰ると、自分を表現しようとする。でも、お姉ちゃんの前では表現できない。壁があるから」
鞠枝が息を呑んだ。
「でも、その奥に——これは深い読みになりますが——妹さんの奥に、お姉さんと同じ貫索星があります」
「え」
「妹さんも、壁を作れる人です。ただ、メインは鳳閣星だから、壁を選ばない。表現を選ぶ。でも、奥には、お姉ちゃんと同じものが眠っている」
鞠枝の手が、膝の上で震えた。
「だからこそ、お姉ちゃんの壁が分かる。受け取るのは、理解していないからではない。分かるからこそ、受け取ってしまうのです」
鞠枝は、長い間黙った。
診断室の窓の外で、夕方が暮れていった。路地の電灯が一つ、二つと点き始める。
「先生」
「はい」
「あの子に、連絡してもいいですか」
「もちろんです」
「何を言えばいいでしょう」
巡は、少し考えてから言った。
「正しいことを言わなくていいのです」
鞠枝が、巡を見た。
「正しいことを言うのは、いつでもできます。でも今日は、佐伯さん自身のことを一つ、妹さんに渡してみてください。心配したことでも、寂しかったことでも。佐伯さんが守る側ではなく、頼る側に立つ言葉を、一つだけでいいので」
鞠枝は、手帳を拾った。落書きのあるページを見た。「おねえちゃん」の文字。
「これ、沙織が小さい頃に書いたんです。私の誕生日に」
鞠枝の声が、震えた。
「私、これを見るたびに、あの子に何も返せていないと思ってた。あの子はこんなに一生懸命描いてくれたのに、私は正しいことばかり言って、何も渡してなかった」
巡は頷いた。
「今日、手帳のこのページの写真を、妹さんに送ってみてはどうでしょう。『見つけたよ』とだけ。正しいことも、心配も、指示もなしに。佐伯さん自身が見つけた、という一言だけで」
鞠枝は手帳を閉じて、鞄に入れた。
「あの、先生」
「はい」
「壁に窓を、って言いましたよね。私の命式に調舒星があるって」
鞠枝の命式に調舒星があることを覚えている患者は珍しい、と巡は思った。
「はい」
「調舒星って、言葉の星ですか」
「表現の星です。繊細で、感じたことを言葉にする力があります」
「じゃあ、私が妹に何かを言う時、その窓から言えばいいんですね。壁じゃなくて、窓から」
巡は、少し笑った。
「そうですね。壁の正面から言うと、正しさになります。窓から言うと、言葉になります」
鞠枝も、少し笑った。
「窓、小さそうですけど」
「小さくていいのです。壁に大きな穴を開けたら、家が崩れますから」
鞠枝が帰った後、美咲は一階で枯れた鉢を見ていた。
底の「 HAPPY BIRTHDAY 」の金文字。鞠枝が妹にあげた鉢かもしれない。あるいは、妹が鞠枝にあげた鉢かもしれない。
美咲は、鉢の根元の小さな芽に水をやった。ミチさんの薬棚にあった小さなじょうろで、土が湿る程度に。
「美咲ちゃん、それ枯れとるで」
ミチさんがカウンターから声をかけた。
「芽があります。生きてます」
「ほんまか。なんの芽やろな」
「分からないです。でも、水をやれば、分かると思います」
ミチさんが、少し笑った。
「美咲ちゃん、優しいな」
「優しくないです。ただ、水をやるだけです」
ミチさんは何も言わなかった。ただ、じょうろを棚に戻しながら、「水はな、やりすぎたらあかんのやで」と言った。
美咲は、二階に上がった。
巡は一人で、二つの命式を並べていた。
長女の命式の奥に、妹と同じ鳳閣星がある。壁の下に、輝きが眠っている。
妹の命式の奥に、姉と同じ貫索星がある。表現の下に、壁が眠っている。
二人は、根で繋がっている。互いの奥に、相手と同じものを持っている。だからこそ、一方が壁を作ると、もう一方が受け取る。一方が表現すると、もう一方が守ろうとする。
巡は、祖母のノートを開いた。あるページに、崩し字で書かれていた。
——貫索星の人はな、壁を作ることで愛を示す。壁の厚さが愛の深さや。でも、壁の厚さは外からは見えへん。外からはただ「冷たい」としか見えへん。だから、壁を作る人はな、たまには壁の内側から声をかけなあかん。「ここにおるよ」と。それが、壁の中の窓や。
巡はノートを閉じた。
自分も、壁を作ったことがある。外科医を辞めた後、祖母の診断所を引き継ぐまでの間、誰とも連絡を取らなかった一年間。壁の中に一人でいた。正しさで自分を閉じ込めていた。
祖母が壁に窓を開けてくれた。「巡ちゃん、お茶入れなさい」という一言で。正しいことでも、立派なことでもない。ただ、祖母が巡に何かを頼んだ。それだけだった。
巡は、鞠枝の命式の余白に、短く書いた。
——壁に窓を開ける一番簡単な方法は、頼ること。
書き終えた時、一階から美咲の声がした。
「先生、この芽、なんですかね」
巡は階段の上から答えた。
「何の芽でしょうね」
「水、やりました」
「ありがとうございます」
「毎日、やった方がいいですか」
「土が乾いたら、でいいと思います」
美咲の足音が、一階に戻っていった。
巡は窓の外を見た。路地の電灯が、淡く光っている。
壁に窓。小さくていい。大きな穴を開けたら、家が崩れる。
でも、窓がないと、中にいる人も、外にいる人も、お互いが見えない。
巡は万年筆を置いた。
非通知の電話は、今日は来なかった。
窓の外で、また風が吹いていた。