第8話以降候補「大樹が倒れた日」
最初に倒れたのは、一本の傘だった。
養心堂の前の路地に、黒い長傘が横たわっていた。梅雨の切れ間の夕方で、雨は降っていない。それなのに傘だけが濡れていた。持ち主の手汗を吸ったように、柄のところだけ色が濃い。
美咲は一階の薬棚に新しいラベルを貼っていた手を止めた。
「先生」
二階に向かって声をかける。返事はすぐにはなかった。机の上で紙をめくる音が一度して、それから巡が階段を下りてきた。
「どうしました」
「予約の方、たぶん……外に」
巡が路地に出ると、傘の少し先に、女が立っていた。
四十代半ばだろうか。濃紺のワンピースに、薄いグレーのカーディガン。髪はきちんとまとめられている。だが、指先だけが落ち着かない。両手の親指が、互いの爪の縁を削るように動いている。
女は傘を拾おうともせず、養心堂の看板を見上げていた。
「予約の藤原様ですか」
巡が声をかけると、女は一瞬だけ肩を揺らした。
「あ……はい。藤原志乃です。すみません、傘」
彼女は慌てて傘を拾った。拾う動作が、やけに丁寧だった。まるで、倒れたものを起こすことに慣れている人の手つきだった。
美咲はその手を見ていた。
爪は短い。指輪の跡が、左手の薬指に薄く残っている。指輪はしていない。外したばかりではなく、何度も外して、またはめて、また外したような跡だった。
「二階へどうぞ」
巡が言うと、志乃は小さく頷いた。
階段を上がる途中で、彼女は一度だけ立ち止まった。壁に掛かった古い墨書き——「命は巡る」——を見て、目を伏せた。
診断室に入ると、志乃は椅子に座る前に、鞄から封筒を取り出した。
「主人の生年月日も、持ってきました」
「今日はご主人のご相談ですか」
「はい。いえ……主人のことでもありますし、私のことでもあります」
言葉が途中で止まった。
巡は急がなかった。机の上の万年筆を置き、志乃の呼吸が戻るのを待った。
美咲は湯呑みを二つ置いた。志乃の前には、少し薄めの番茶。巡の前には、白湯。ミチさんならそうしただろう、と美咲は思った。濃いものを出すと、この人はさらに背筋を伸ばしてしまう。
志乃は湯呑みに触れた。飲まなかった。ただ、両手で包んだ。
「主人は、会社を経営しています。小さな建設会社です。社員は二十人くらい。地域のPTAにも関わっていて、商工会にも、消防団にも、自治会にも……とにかく、頼まれたら断らない人なんです」
巡は頷いた。
「困っている人を放っておけない」
「そうです」
志乃はすぐに答えた。その速さに、自分で少し驚いたようだった。
「最初は、そこが好きでした。誰かのためにすぐ動ける人で。社員の奥さんが病気になったら、仕事を調整して、給料も前借りさせて。PTAで誰もやりたがらない役を引き受けて。倒産しかけた取引先には、支払いを待ってあげて」
志乃の指が、湯呑みの縁をなぞった。
「でも、その人たちは……主人が倒れた時、誰も来ませんでした」
診断室の空気が、少しだけ沈んだ。
巡の目が、志乃の顔から封筒へ移った。
「ご主人は、今」
「入院しています。心臓です。命に別状はないと言われました。でも、しばらく仕事はできません。会社も、現場も、PTAも、全部止まりました。止まって初めて分かったんです。主人がどれだけ無理をしていたか」
志乃は笑おうとした。だが、口元だけが動いて、目は笑わなかった。
「助けた人たちは、感謝してくれていると思っていました。少なくとも、困った時には、少しは返してくれるんじゃないかって。でも実際は違いました。社員の一人は、主人が入院した翌週に辞めました。取引先は、支払いを待ってほしいとまた言ってきました。PTAの人は、主人がいないなら誰が次の会議に出るのかと、私に電話してきました」
美咲は、思わず手を止めた。
志乃は続けた。
「私、怒ってしまったんです。電話口で。主人は病院にいるんですって。あなたたちは、まだ主人に何かさせるつもりですかって」
そこまで言って、志乃はようやく湯呑みを口に運んだ。
番茶の湯気が、彼女の眼鏡を少し曇らせた。
「そうしたら、相手に言われました。『そんな言い方しなくても。藤原さんがいつも引き受けてくれていたから、お願いしただけです』って」
沈黙。
「私が、悪いんでしょうか」
志乃の声は、怒りよりも疲れに近かった。
「主人の優しさを、私は否定しているんでしょうか。あの人の良いところを、私が壊そうとしているんでしょうか」
巡は答えなかった。
代わりに、封筒をそっと受け取った。
中には、夫の生年月日が書かれた紙が入っていた。
藤原大輔。1979年5月4日。
巡は暦を開いた。干支を追う指が、紙の上を静かに滑る。年柱、月柱、日柱。五行。陽占。
美咲は巡の横顔を見た。
巡が命式を読む時の顔は、手術室に入る前の医師の顔に似ている。余計な感情を消し、構造だけを見る。けれど今日は、少し違った。巡の眉間に、迷いではない影が落ちた。
「禄存星が強いですね」
巡が言った。
「ろくぞんせい」
「与える星です。恵みを回す星。自分のところに来たものを、留めずに人へ渡す。お金だけではありません。時間、信用、労力、責任、場所。人が必要としているものを、自然に差し出せる」
志乃は黙って聞いていた。
「ご主人は、助けているというより、息をするように与えているのだと思います」
「息をするように」
「はい」
志乃の表情が、一瞬だけ柔らかくなった。きっと、それは夫を知っている人だけができる頷きだった。
「でも」
巡は言葉を切った。
窓の外で、路地を自転車が通る音がした。遠くで誰かが笑っている。その日常の音が、診断室の静けさをかえって濃くした。
「禄存星は、受け取るのが下手です」
志乃が顔を上げた。
「与えることで関係を作る人は、受け取る側に立つと、自分の価値が分からなくなることがあります。必要とされている時は安心できる。でも、助けられる側になるのは怖い。だから、倒れるまで与える」
志乃の指が止まった。
巡は命式の紙を見たまま、静かに続けた。
「ご主人は、善い人です。ただ、善い人でいることでしか、自分を許せなかったのかもしれません」
その言葉で、志乃の目に涙が浮かんだ。
美咲は、胸の奥が小さく痛むのを感じた。
善い人でいることでしか、自分を許せない。
それは、誰かの話ではなかった。広告代理店で、クライアントの要望を断れず、先輩の仕事を引き受け、笑顔で徹夜した過去の自分が、そこに少しだけ重なった。
「先生」
志乃が言った。
「私は、どうしたらいいんでしょう。主人に、もう誰も助けないでと言えばいいんでしょうか」
巡は、すぐには答えなかった。
その沈黙の中で、美咲は、ふと台帳の端に挟まっていた古い紙片を見た。巡が祖母のノートから写した言葉だった。
——大樹が倒れたら、下にいる人も困る。
美咲は言葉にしなかった。ただ、その紙片を巡の方へ少しだけ押した。
巡はそれに気づいた。視線だけで、美咲を見た。
美咲は小さく首を振った。
これは、さくら先生の言葉かもしれない。でも今、目の前の人に渡すなら、巡自身の声でなければ届かない。そんな気がした。
巡は紙片を見ずに、志乃に向き直った。
「もう助けるな、ではありません」
志乃が息を呑んだ。
「与えることをやめさせたら、ご主人はご主人でなくなってしまう。禄存星の人に、与えるなと言うのは、火に燃えるなと言うのと同じです」
「じゃあ」
「ただし、誰にでも与えていいわけではない」
巡の声が、少しだけ低くなった。
「木陰で休む人と、根を食う人は違います」
志乃の目から、涙が一粒落ちた。
「ご主人は、今まで、そこを分けてこなかった。困っている人なら、皆同じように助けた。けれど、助けを受け取れる人と、助けを消費するだけの人がいます。感謝する人と、次の要求に変える人がいます。ご主人の優しさが悪いのではなく、優しさを置く場所を選んでこなかったことが、ご主人を削ったのだと思います」
志乃は、両手で顔を覆った。
「私、ずっと……主人に冷たくなってほしかったわけじゃないんです」
「分かります」
「ただ、帰ってきてほしかった。家に。私のところに。子どもたちのところに。会社の人やPTAの人や、困っている誰かのところじゃなくて、まず、家に」
巡は頷いた。
「志乃さんは、ご主人の優しさを否定していません。根を守ろうとしていたんです」
「根」
「大きな木は、枝葉を広げます。日陰を作る。鳥も休む。通りすがりの人も涼む。でも、その木を支えているのは、見えない根です。家庭は、その根に近い場所です」
巡は一度、言葉を止めた。
そして、少しだけ目を伏せた。
「祖母なら、こう言ったと思います。大樹は森全部を背負わんでええ。まず、自分の根元に水をやりなさい、と」
志乃は、顔を上げた。
「根元に、水」
「はい。ご主人が回復されたら、最初に決めるべきことは、誰を助けるかではありません。誰の助けを受け取るかです」
「受け取る……」
「志乃さんから。家族から。会社の中で、本当に支え合える人から。ご主人が『助ける側』を降りる時間を作る。それが、次に人を助けるための条件になります」
志乃は長い間、黙っていた。
その沈黙は、初めに診断室へ入ってきた時の沈黙とは違っていた。言葉を探す沈黙ではなく、何かを自分の中に戻している沈黙だった。
「主人に、言えるでしょうか」
「一人では難しいかもしれません」
巡は紙に短く処方を書いた。
一、入院中は外部の依頼をすべて志乃が受け止めず、会社の担当者へ返す。 二、退院後三ヶ月は、PTA・自治会・商工会の役を新規に受けない。 三、助ける前に、家族会議で一度言葉にする。 四、志乃からの助けを、毎日一つ受け取る。
最後の一行を書いた時、志乃が小さく笑った。
「毎日一つ、ですか」
「禄存星の人には、それくらい具体的にしないと難しいです」
美咲も、少しだけ笑った。
志乃は処方の紙を見つめた。
「主人、嫌がると思います」
「でしょうね」
巡が即答したので、志乃は今度こそ少し笑った。
「でも、嫌がるということは、そこに課題があるということです」
巡はそう言って、封筒を返した。
「次回は、ご主人と一緒に来てください。来られなければ、病室で読んでも構いません」
「病室でも?」
「はい。命式は場所を選びません。ただ、人は場所に影響されます。ご主人が初めて助けられる側にいる場所で読むことに、意味があるかもしれません」
志乃は処方の紙を鞄に入れた。だが、封筒だけはしばらく膝の上に置いていた。
「先生」
「はい」
「主人は、報われなかったんでしょうか」
その問いは、診断室の奥まで届いた。
巡は答えに時間をかけた。
「報われる、という言葉を、誰から返ってくるかだけで考えると、報われなかったのかもしれません」
志乃の表情が、少し歪んだ。
「でも、ご主人が与えてきたものの全部が、無駄だったとは思いません。ただ、それをご主人自身が受け取れる形に戻す人が、今までいなかった」
巡は、美咲を一瞬見た。
「禄存星は経験を与える。玉堂星は、それを知恵に変える。志乃さんは、ご主人の経験を、家庭の知恵に変える人なのだと思います」
「私が」
「はい。ご主人の優しさを責める人ではなく、優しさが命を削らない形に翻訳する人です」
志乃は唇を噛んだ。
泣くまいとしていた。けれど、涙はもう止まらなかった。
志乃が帰った後、診断室には番茶の香りだけが残った。
美咲は湯呑みを片づけながら、ぽつりと言った。
「助けた人に助けてもらえないって、きついですね」
「はい」
「でも、助けたこと自体が間違いだったって言われるのも、もっときつい」
巡は机の上の命式を閉じた。
「だから、そこは言えませんでした」
「言わなかったんじゃなくて、言えなかった?」
美咲の問いに、巡は少しだけ黙った。
窓の外は、夕方から夜へ変わりかけていた。路地の電灯が一つ点き、硝子に淡く反射している。
「僕も、助けたかった人に助けられなかったことがあります」
美咲は手を止めた。
巡はそれ以上、説明しなかった。会社のことも、共同経営者のことも、外科医を辞めた後の暗い一年のことも。
ただ、机の隅に置かれた祖母のノートに指を触れた。
「ばあちゃんは、よく言っていました。与える愛は、断る勇気を持った時に、ほんまの恵みになる、と」
「それ、今日言えばよかったのに」
「でも、ばあちゃんの言葉は強すぎる時があります。そして、借りてきた言葉は、相手に届かない。」
巡は苦笑した。
「そのまま渡すと、相手がその言葉に従おうとしてしまう。今日は、志乃さん自身の言葉に戻る方が大事でした」
美咲は湯呑みを盆に乗せた。
「じゃあ、先生の言葉だったんですね。木陰で休む人と、根を食う人は違うって」
「半分は、ノートからです」
「半分は?」
「今日の藤原さんです」
美咲は少し考えて、それから頷いた。
命式だけでは半分しか見えない。さくらのノートにあった言葉を、美咲はまだ完全には知らない。けれど、今日の巡が何をしていたのかは分かった気がした。
命式を読み、顔を見て、空気を待つ。
その三つが揃うまで、答えを急がない。
「私、さっき」
美咲は盆を持ったまま言った。
「先生に、さくら先生の言葉を渡そうとしました。でも、やめた方がいい気がしました」
「助かりました」
「え」
「僕一人なら、たぶん言っていました」
美咲は目を瞬いた。
巡は窓の外を見ていた。
「命式を見ると、答えを出したくなるんです。構造が見えるから。でも、人は構造だけでは動かない。今日の志乃さんは、答えより先に、自分が冷たくないと誰かに言ってほしかった」
美咲は、志乃の手を思い出した。傘を拾う手。湯呑みを包む手。夫の封筒を膝に置き続けた手。
「冷たくなかったですね」
「はい」
「ずっと、根っこを守ってた」
巡は頷いた。
その時、一階からミチさんの声がした。
「美咲ちゃーん、お茶碗、下げるならついでにこっちの急須も洗っといて」
「はい」
美咲は返事をして、階段へ向かった。
降りる前に、ふと振り返った。
「先生」
「はい」
「大樹って、自分では倒れそうなこと、分からないんでしょうか」
巡は少し考えた。
「分からないことが多いと思います。木は、自分の葉の広さを見られませんから」
「じゃあ、誰が教えるんですか」
「近くにいる人です」
巡はそう言ってから、少しだけ言葉を足した。
「ただし、切り倒すためではなく、根に水を戻すために」
美咲は小さく頷いた。
階段を下りる足音が、古い木に柔らかく響いた。
巡は一人になった診断室で、志乃の命式を書いた紙を見つめた。正確には、夫の命式の余白に書かれた志乃の筆跡を見ていた。
藤原大輔。夫。会社経営。PTA。倒れた。
最後の「倒れた」の文字だけ、少し濃かった。
巡は万年筆を取り、診断記録の末尾に一行を書いた。
——与える者が倒れた時、初めて見えるのは、与えた量ではなく、根の渇きである。
書き終えた時、携帯電話が震えた。
非通知。
巡は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
助けた人に、助けられなかったことがある。
さっき自分が口にした言葉が、遅れて胸の奥に沈んでいく。
電話は、三度鳴って切れた。
巡は出なかった。
窓の外で、また雨が降り始めていた。
路地に置き忘れられた誰かの傘が、電灯の下で静かに濡れていた。